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第6巻 第1章 竜の里からの使者(4)

死の森の最奥。千年の闇に閉ざされた祭壇は、名だけを残し、まるで廃井戸のような口を開けている。


黒曜の床は剥がれ、細い亀裂が網目を描く。その隙間から濁った瘴気が湯のように立ちのぼり、舌の裏へ鉄の味を置いていく。空気には脂を落としたみたいな重さがあり、一度吸えば肺の内壁に錆粉が貼りつく。視界の端で、あり得ない輪郭が陽炎めいて現れては、霧の手に摘まれて消えた。


中央に、ひとり。


魔王軍最後の四天王、黒環のシオン。もはや人の骨組みは、異物に置き換わる最中だ。漆黒の長衣の下で、骨が擦れるざらついた音が鳴る。肘より先は黒い結晶と化し、肌の上を呪の文字が浮沈する。眼窩の奥では、瞳の代わりに紫の煙が渦を巻く。


「ここまで、来たか」


掠れた声が夜をかすめる。


彼はひざを折り、祭壇中央の巨大な陣の縁へ手を置いた。触れた瞬間、陣は脈打ち、暗紫の光が同心円を描いて広がる。光は石床を走り、柱をよじ登り、天井の亀裂から外へ漏れた。


「私の名は、シオン」


低く、詠唱が走り出す。


「黒環のシオン。魔王ザガルディアスの最も卑しき徒。もっとも深い愛を捧げた愚か者」


その声は一つではない。囁き、悲鳴、子の泣き、老女の呪い、嬰児の笑い。幾層にも重なる声の綾。それはこの祭壇に喰われ、礎になった魂の余熱。


シオンの記憶が、触媒として掘り出される。


五百年前。名を持たぬ孤児だった。北の凍てつく漁村で両親を疫病に奪われ、「不吉の子」と唾を吐かれ、雪原へ捨てられた幼子。指先が凍え、唇は紫に変色し、息は薄れ、白い雪面を踏む足音が近づいた。


『お前は美しい』


ザガルディアスはそう告げた。声は乾いた火。冷え切った胸へ灯がともる。


『絶望に磨かれた魂は、何より美しい。私のものになれ』


救いだったのか呪いだったのか、今でも判じ難い。ただ、その瞬間から五百年、彼はあの方のためだけに動いた。理想のために村を焼き、命を奪い、人としての部品をひとつずつ削った。


そして、支払う刻が来る。


「主よ」


裂けた笑みを浮かべ、結晶の腕を天へ掲げる。


「不肖の従僕より、最後の捧げ物を」


詠唱は第二段へ。


「闇よ、原初の闇よ。世界が形を持つ前、神々が言葉を持つ前、混沌の海に蠢いた最古の闇よ。私の肉を糧に。私の骨を薪に。私の魂を、鍵に」


刹那、空間が悲鳴する。


音に似て音でない、世界そのものが軋む響き。ガラスの破片が踊り、海鳴りが唸り、巨木が倒れ、赤子が泣く。異なる音の群れが一箇所で同時に鳴ったかの錯覚。


祭壇を中心に空気が捻れる。


最初は小さな歪み。光が屈折し、シオンの輪郭が二重三重にぶれた。次いで、空間が波打つ。石床は水面のごとく紋を描き、柱は飴細工のように伸び、天井の亀裂から漏れる星明かりが螺旋で落下する。


「ぐ……ぅ」


苦悶が初めて漏れる。結晶の両腕は肩口から砕け始めた。儀式の燃料は自分。骨は砕け、肉は剥がれ、魂は引き裂かれる。紫煙の眼は、なお燃える。


「足りぬ、まだ足りぬ……あの結界を剥がすには、まだ」


あの結界——千年前、初代勇者と賢者たちが世界の半分を犠牲に編んだ封印。鍵は年月のうちに形も場所も変え、「死の森を覆う織り上げた空間」として、ひとりの結界師の手へ委ねられた。


寸分の狂いを許さぬ男。アレス。


シオンは笑う。砕ける頬を引きつらせ、愉快げに。


「皮肉だ。世界を救うはずの結界が、世界を覆う最大の障壁として立つとは。あの男、アレスの……感性が、もし少しでも曲がっていれば、私の仕事は容易だった」


詠唱は第三段へ。


「断て。千年の鎖。千年の檻。千年の眠り。命を以て対価とし、私の愛で楔を抜く」


魔法陣の中心から、漆黒の柱が噴き上がる。


光であって光でなく、闇であって闇でない。ひたすらに「無」。触れたもの全てを根元から否定する侵蝕。柱は天へ突き刺さり、夜空を裂き、雲を蒸発させ、星の瞬きを呑み込んだ。


森の巨木が震える。


何百年、結界に守られ腐り続けた幹が、根から梢まで戦慄し、葉が一斉に散った。獣は恐慌で走り、岩肌の苔さえ悲鳴を上げるように剥がれる。


そして、遠く離れた結界の中心。


アレスが「傷ひとつない」と言い切って愛した銀の楼閣、その最上階で、異変は捉えられた。


* * *


「アレス様!」


エララの声が夜気を裂く。


竜の姫君は白磁の床を蹴り、疾走する。長い黒髪が尾のようにたなびき、紅玉の瞳が光を弾く。普段はここまで取り乱さない。誇り高い竜族の末裔は感情の露出を潔しとしない。


ただし——彼が絡まなければ、の話。


アレスのこととなれば、理性の糸はたやすく千切れる。


「お願い、逃げて。結界が、結界が」


廻廊を抜け、螺旋階段を駆け上がり、最上の硝子扉を勢いよく押し開く。


そこに、彼はいた。


月に梳かれた銀の髪が風を拾い、腕を組んで森を見下ろす。陶器の頬、氷晶のような青の瞳。彼は、己の手で編んだ領域の内側で起きている異常を、観察する。


「騒がしいぞ、エララ」


冷えた声が足を縫い止めた。


「今、私が何をしているか、見ればわかる」


「でも、あの黒い柱——」


「醜悪だ」


アレスはぽつりと落とす。


「実に、醜悪だ」


エララは言葉を失う。


怒りも焦りもない。ただ、ひとりの作り手としての不快。年を重ねて整えた絵のど真ん中へ、泥の手形を押されたときの痛み。それに近い。


「消す」


彼は、ゆっくり右手を上げる。


「醜いものは、なくす」


指先が淡い銀色に灯る。彼の術は、世界に稀な微細さで知られる。針穴に糸を通すみたいな感覚で、森全体を覆う式の構造を組み替えていく。空中に無数の光の文字が立ちあがり、幾何の紋を描いた。


「……?」


エララは見てしまう。


ほんの一瞬。ほんの僅かな揺らぎ。光の文字が、肩をすくめたみたいに震えた。


普段なら決して起きない微細な乱れ。致命たり得る揺れ。


「アレス——」


「黙れ」


初めて、彼の声に硬さが混じる。


「集中」


冷たい指が背を撫で上げるような感覚が走った。


彼が、押されている。


緻密で隙のない結界師が。千年の封を自在に扱う彼が。たったひとりの四天王の儀式に、押し負けつつある。


それが意味するものを、エララは即座に理解する。


これは並の儀ではない。シオンという男は、存在のすべて——五百年の魂と肉と骨——を対価として投げている。つまり、技術と技術が手の内を見せ合う戦いではない。「業」と「業」の衝突。命の重さを秤に乗せるだけの真っ向勝負。


そして、ためらいなく棄てられる命と、棄てない命。その差は、非情なほど残酷だ。


「手伝わせて。心臓でも鱗でも、欲しいものを——」


「下がっていろと言った」


「嫌。ここで見ているだけなんて、できない」


首を振る。強く、何度も。黒髪が乱れ、紅玉の瞳が薄く濡れる。笑みが唇に浮かぶ。場違いなほど柔らかく、控えめに。そして、彼女の背へ冷気が滲む。床の白磁に髪影が落ちると、縁から霜が咲いた。


「なら、私を使って。どうせ——」


「下がれ、エララ」


振り向かず、アレスは言う。


「お前の命は、私の庭の一部だ。勝手に欠けることを許さない」


膝が笑いそうになる。


彼の言葉はいつもそうだ。冷たく、傲慢で、自己中心的に響く。だが、その中心に、彼なりの守りが見える。「庭の一部」という比喩の奥で、「失いたくない」という音が、厚い殻に包まれ、震える。


胸で何かが軋む。笑ったまま、彼女は呼吸を整えた。


床の硝子が、月の角度を拾って青白い線を引く。窓の金具に夜風が触れて金属の匂いを運ぶ。アレスの指先から香るのは、古い紙と乾いた草の匂い。彼の呼気は低く、均一で、冷たい。


「……醜いな」


彼はぽつりと吐く。


「線が汚れる。形が歪む」


指先が、また光を紡ぐ。簡潔な言葉だけが宙に落ちる。


「——沈め」


それだけ。指が弾かれたように鳴る。


生まれた光は音もなく降り、黒い柱の裾へ刺さり、縁から崩そうとする。銀の筋が黒に触れるたび、焼けた羽の匂いが漂った。


「……足りない」


額の汗が頬を伝う。彼の瞳の青は濃く、冷たいが、底に焦げ色が混じる。


「アレス、あれは——」


「わかっている」


彼は短く返す。言葉は最小限。背を向けたまま、右手を軽く返した。一時、風向きが揺れる。彼の髪がすっと右から左へ撫でられた。月光が爪へ細い線を描く。冷えが指を刺す。


エララは、静かに笑む。瞳の縁がわずかに細くなる。美しいものを見るときの笑い。だが、彼女の靴先の周りで、うっすら氷片が生まれて砕けた。笑みは解けない。


「あなたが作った世界が好き。朝の光が廊の角で曲がるところも、夜の音が高窓に触れて丸くなるところも。ここに吹く風の匂いも」


「今は、黙っていろ」


柔らかく、しかし拒む。


胸骨の裏で心拍が早まるのを、彼女は手のひらで押さえた。袖口の内側へ爪が沈み、布がざらりと鳴る。目を閉じ、数を数え、目を開く。紅が深まった。


* * *


森の最奥。シオンの肉体は半分以上が崩れた。


両腕は影もなく、下半身は黒い砂となって風に紛れた。胴の半ばまで結晶の亀裂が走る。紫煙はなお燃え、揺るぎなく見える。


「あと、少し」


詠唱は最終段へ。


「封印解放。第七層、第六鍵、第五楔、第四呪、第三輪、第二環。そして——」


空間が裂ける音が走る。


ばりばりと、現実の織物が破れる音。縦に、横に、斜めに。無数の亀裂が空中へ走る。裂け目の向こうは、既知の名を拒む色。目がそれを認識した瞬間、脳が逃げる。


足元の魔法陣が最後の光を放つ。


「第一の名!」


世界が一拍、止まった。


風も音も時間も、刹那だけ凍る。森のすべての営み——眠り、目覚め、呼吸、鼓動——が、一度だけ制止した。


そして、再び動いたとき。


遥か彼方、銀の楼閣の最上で、アレスの紡いだ光の文字が、音もなく砕ける。


「——っ」


息を呑む音。エララが彼と出会って以来、初めて聞く震え。


幾何の紋は結晶が砕けるように、粉雪のように、散る。床へ落ちる前に消える断片を、彼女は呆然として追いきれない。空気の味が、わずかに焦げた。


「結界が」


アレスの呟きに、先ほどの余裕はない。


「私の手から、離れていく」


死の森を包んできた千年の封。あらゆる魔を押さえ込んできた檻。それが今、最後の四天王の自己犠牲——最も古びた、最も汚れた、最も力だけは強い手段——で、根元から食い破られつつある。


「アレス!」


名を呼ぶ声は、もはや言葉ではない。竜族の魂の咆哮であり、愛する者へ伸ばす手の叫び。彼女の輪郭が一瞬だけ歪む。頬に漆黒の鱗が浮かび、瞳孔は縦へ裂ける。それでも、微笑は消さない。笑顔のまま、足元の霜花が濃くなった。


アレスは、見ない。


青の瞳は虚空へ据えられる。彼が築き上げた空間——傷のない庭が崩落していく光景を、信じられないという顔で見つめる。月の光が頬骨の曲面を冷たく撫で、肌温が一段落ちた。


「私の……庭が……」


嘆きの声。


寸分の狂いも許さぬ結界師にとって、それは死より辛い光景かもしれない。何百年、寝食を脇に置き、人を遠ざけ、ただ一つの調和を追って重ねてきた自己証明。それが今夜、ひとりの自爆で瓦解しようとしている。


エララの中で、音が変わる。


ひとつ、組み替わった。


もう、彼を隅に囲う時間は、終わり。


彼の隣で笑う日々を夢に見る贅沢は、許されない。


彼を守るためなら、私は、私の願いを捨てる。


涙が一筋、紅の瞳から落ちる。頬に冷たく跡を引き、顎で煌めき、床の霜に吸われた。


「アレス」


震えを抑え、確かな声で言う。


「あなたは言ったね。私の命は、あなたの庭の一部だって」


アレスは振り向かない。


「なら、その庭を守るために、私のすべてを使うこと。許して」


言葉は静かだが、床の白に薄い氷が走り、指先から出た息が白くほどけた。笑みだけが変わらない。優しい笑み。頬と目尻だけで作る、小さなやわらかい弧。


「アレス、見て。私は——」


「エララ」


彼は短く呼んだ。青がわずかに揺れる。


「——勝手は許さないと言った」


青の眼差しに、僅かな熱が生まれる。強情と、弱さと、どちらにも寄らぬ光。


エララは首を傾ぐ。鼻先でこくりと頷き、ほんの少しだけ距離を詰めた。彼の袖口へ手を伸ばし、触れる寸前で止める。触れない。ただ、近くに居るという輪郭で彼を囲う。


「じゃあ、隣に立つ。あなたの邪魔はしない」


その距離、指一本。彼の指が小さく震える。遠くの風の音が、塔の縁で甲高く鳴った。乾いた空気が、二人の間を抜ける。


遥か彼方、崩れゆくシオンの口元が、薄く笑む。


「来る……」唇が形をつくる。「我が主が、目覚める」


漆黒の柱が、天を貫通した。


夜空に巨大な裂け目が走る。


裂け目の向こうから、巨大で、太古で、忘れられ、しかし消えてはいなかった「もの」の気配が、ゆっくりこちらへ寄る。深海で大きなものが身じろぎしたときの圧が、星の光に影を差す。


千年の眠りが、今、終わりに近づく。


死の森の夜は、まだ始まったばかりだ。

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