プロローグ 首を落とした日
――水の音がした。
目を開けた瞬間、世界が歪んでいた。
空も地も光も混ざりあい、泡のように揺れている。
落ちる、沈む。
それでも確かに、足が地を踏んでいた。
……おかしい。
視界が低い。
呼吸ができない。
それに、体が――軽い。
リアは震える手を伸ばした。
けれど、その指先が触れたのは首のない自分の身体だった。
理解が追いつかない。
けれど、体は動く。
魔力が血のように流れ、心臓の代わりに青白く脈打っている。
――首が、ない。
音にならない悲鳴を飲み込んだそのとき。
森の向こうから、鉄を踏む音がした。
⸻
霧の中から現れたのは、黒い鎧をまとった男。
鋭い蒼炎のような魔力を纏い、金色の瞳がリアを射抜く。
「……なんだこりゃ。嬢ちゃん、首がねえじゃねえか」
リアは後ずさる。
声が出ない。
けれど、助けを求めるように手を伸ばした。
男は一瞬、信じられないような目をしたが、
次の瞬間、豪快に笑った。
「ははっ、いいじゃねえか! 生きてんなら上等だ!
首なんざ、あとで拾えばいい!」
リアは戸惑いながらも、その声に少しだけ安堵した。
男は首を鎧の袋に包み、リアの体をひょいと抱え上げる。
火照ったように蒼炎が足元を包み、地を滑る。
「名は?」
「……り、リア……です」
「リアか。俺はガルド。ガルド・ヴァルクスだ。
黒牙隊の団長やってる。今から、お前はうちの隊員だ。」
「……たい、いん?」
「そうだ。首がなくても、歩けるんなら十分だ。」
霧の中、蒼い焔が遠ざかる。
背中に感じる熱と、初めて知る安心の匂い。
首をなくした少女は、その日、生まれ変わった。
――黒牙隊のリア・ヴァルクスとして。
⸻
同じ頃。
王都ルーミエラの夜。
高塔の最上階、月光を透かす硝子の棚の中に、
一つの“首”が静かに横たわっていた。
閉じられたまつ毛、薄く開いた唇。
まるで眠る人形のように、美しく整っている。
「……綺麗だな。」
青年は淡い笑みを浮かべ、硝子越しにその頬をなぞった。
白銀の髪が揺れ、黒衣の裾が風に鳴る。
「お前、どこの子だ?
こんなに綺麗な首、そうそう落ちてない。」
その声は柔らかく、それでいて冷たかった。
彼の名は――エルヴァン・ノア・セレノス。
王国魔法師団の副長にして、
“死者の美”を収集する男。
「また会おう。……首のない少女。」
硝子の中、リアの首が微かに光を放った。
それはまるで、彼女の魂が呼応しているようだった。




