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白い洗面器

作者: カワラヒワ

トクトクトク。

亮子は白い洗面器にペットボトルの水をあけた。

「少ししかないわ」

洗面器に四分の一ほど溜まった水を見ながら、亮子はぽつりとつぶやいた。

少し濁った水の水面がゆれている。

「達也さん・・・」

亮子はか細い声で男の名前を呼んだ。

達也は亮子の恋人だった。

結婚の約束をした二人だったが、一ヶ月前、達也は友達たちと湖に遊びに行き、溺れて死んだ。

はっきりした詳細はわからないが、飲酒したせいで溺れたのだろうということだった。

「私をおいて、一人で逝ってしまうなんて」

亮子は愛し気に水に顔を近づけた。

水は外気で温められたせいか、生臭い臭いがする。

この水は達也がおぼれた湖から、今朝、亮子が汲んできた水だ。湖に花をたむけた時、急に思い立って湖の水を持ち帰ったのだ。

何か奇跡が起こるかもしれない。水に達也の顔が映るとか。そんなことを考えた。

亮子は洗面器を覗き込んでしばらく見つめた。

しかし、水はうすぼんやりと亮子の顔の輪郭を映すだけで、達也の顔が映ることはなかった。

「そうよね、そんな奇跡起こるはずがないわ」

亮子の目から涙が洗面器に落ちて、水がゆらゆらとゆれた。


その日の真夜中、亮子はベッドの上で目を覚ました。

閉めきった部屋は蒸し暑く、汗で首元がベタベタしていた。

何か部屋の様子がいつもと違う気がして、亮子は体を起こした。

常夜灯だけの明るさではなく、別のとこらから明かりが漏れているような感じだ。

「あっ」

奥の部屋を見た亮子が声をあげた。

玄関近くのテーブルの上においていた洗面器が光っている。あの湖の水を入れた洗面器だ。水を流すのが忍びなくて、そのままにしておいたものだ。

亮子はそっと洗面器に近づき、中をのぞいた。

「まさか!」

奇跡は本当に起こった。

光る洗面器のほの明るい中、達也の顔が映っていた。

「達也さん」

水に映った顔はうなずいて、やさしく亮子に微笑みかけた。


それから亮子は夜中の一時に、洗面器の水に現れる達也と楽しい時間を毎夜楽しんだ。

達也はいつも、亮子の話しに微笑みうなずくだけだったが、亮子はそれだけで十分だった。


そんなことが一ヶ月つづいた。

亮子は徐々に洗面器の達也に会うのがおっくうになってきていた。

夜中の一時という、眠い時間でもあったし、こちらから話しかけても、返事も返ってこないなんてつまらないと思い始めていた。

(今夜は達也さんに会わなくてもいいかしら)

亮子はベッドに腰掛けて考えた。

(仕事で疲れているし、早く休みたい。それに・・・)

今日、亮子は会社で同僚の高橋に食事に誘われた。

高橋は長身のイケメンだ。気がよく付くし、誰にでも優しいから、みんなに好かれている。

そして、亮子も少なからず高橋に好意を持っていた。

(まさか、高橋さんに誘われるなんて。一瞬、達也さんの顔が浮かんで、今日は予定があるからなんて断ってしまったけれど、断らなくてもよかったわ。だって、達也さんは死んでしまって洗面器の中だけに現れる幽霊。もちろん食事も一緒に行けない。でも、高橋さんはちがう。生きている。会話もできるし食事だって一緒に楽しむことができる)

亮子はベッドに横になって布団を頭までかぶった。

(また誘うよって言ってくれたわ。うふふ)

亮子は久しぶりにワクワクして、思わず笑いがこみあげた。


次の朝、亮子は洗面器の中の水を流し、きれいに洗って洗面器を押し入れの奥に片付けた。

もう、達也さんのことは忘れよう。

亮子は明るい気持ちで会社に向かった。


それから亮子と高橋が恋人同士になるのに、時間はかからなかった。

(私、今とても幸せ)

高橋に比べれば達也はかっこよくなかったし、一緒にいてこんなに幸せを感じるようなこともなかった。

達也と結婚の約束をしていたけれど、結婚しなくてよかった。

死んでくれてよかったのかも。そんなことさえ思った。


あるどしゃ降りの雨の夜、雨に濡れた亮子と高橋は亮子のマンションに帰ってきた。

「ふう~、ひどい雨」

マンションのドアを閉めながら、亮子が言った。

「こんな雨のことをバケツをひっくり返したようだって言うんだな。傘も役にたたなかったよ」

イタリアンレストランで食事をしてほろ酔いの二人は、お互いのずぶ濡れの体を見て笑った。

高橋は靴を脱ぐと、バスルームにいきタオルを取って、亮子に渡した。

高橋はここ最近、週末になると亮子のマンションに泊まりにくるようになっていて、勝手がわかっている。

「高橋さん、このままシャワーをあびるといいわ」

亮子が受け取ったタオルで髪を拭きながらいった。

「ぼくは後でいいよ。先に入っておいで」

冷え性の亮子を気づかって、高橋が優しく言った。

「いいの? じゃあ、先に入らせてもらうわ」

温かいシャワーのお湯が冷えた亮子の体を包む。

ラララララ。高橋と過ごす夜のことを想うと、亮子の口から自然と歌がでた。


「あっ」

バスルームから出て来た亮子が小さな声を出した。

部屋の中央、ベッドから近いところに、あの白い洗面器が置かれている。

三ヶ月ほど前、達也の顔があらわれるのを待ちわびて覗き込んでいたあの洗面器。

(ええっ! どうしてこんなものがここにあるの?)

亮子は茫然となって、立ち止まった。

「雨漏りだよ。最上階はこんなこともあるんだね。明日管理人に電話しないとね。じゃあ、次、ぼくはいるよ」

首にタオルを巻いた高橋がソファーから立ち上がって言った。

「う、うん」

亮子は動揺をさとられないように、笑顔を作ってうなずいた。

天井を見上げるとしみができていて、そこからポタリポタリと洗面器の中に水が落ちている。

亮子の部屋は確かに六階の最上階だ。けれど、今までひどい雨の時でも雨漏りなんて、しなかった。

(それにしても、この洗面器。どうやって高橋さんは見つけたのだろう。押し入れの見えないところにしまっておいたのに)

亮子は首をかしげた。

(でも、まあ、いいわ。湖の水は捨ててしまったんだし、もう、あの洗面器に達也さんの顔が映ることはないわ)

亮子は目の端に洗面器を見ながら鏡台に向かった。

化粧水を顔にはたいて、ドライヤーで髪を乾かす。

亮子はちらりと洗面器を見た。

洗面器の中で優しく微笑む達也の顔が目に浮かぶ。

(きっと達也さんは私の幸せを願ってくれているはずよ)

亮子は鏡に映る自分の顔に微笑みかけた。


夜中、亮子はふと目を覚ました。

隣で寝ている高橋の安らかな寝息が聞こえる。

雨は先ほどのように激しくはないが、まだ降っているようだ。

雨音に混じって、洗面器に落ちる水の音がきこえる。

時計を見ると、デジタルの文字が十二時五十九分から、一時に変った。

洗面器に達也の顔が映る時間だ。

亮子は思わずゾッとして洗面器の方に振り向いた。

「そんな!」

もう、あの洗面器が光ることもないだろうと思っていたのに、前と同じように光っている。

そして、洗面器から黒い丸いものがゆっくりと出て来ている。人間の頭だ。それが達也の頭であることは察しがついた。

「ヒッ」

亮子は声にならない声をあげた。

「高橋さん、高橋さん! 起きて、高橋さん!」

亮子は高橋の体を揺さぶって叫んだ。

だが、高橋はまるで全身麻酔をかけられた患者のように、ぐにゃぐにゃと体を揺するだけで目を覚まさない。

洗面器から顔が出た。

濡れて顔に張り付いた髪の間から、のぞいた目が光り、もの言いたげに少し開いたくちびるから水がだらりと流れた。

「キャー!」

亮子は悲鳴を上げて、ガタガタと震えた。

小さな洗面器から不思議なくらい滑らかに肩、腕、胴体が出た。

そして、とうとう足の先まで出ると、それは床の上をすべるように亮子の前までやってきた。

「許して。 許して、達也さん」

亮子が懇願するように、手を合わせていった。

達也は首を横に振り、亮子の耳元に口を寄せると、

「一緒に行こう」

とささやいた。


朝になり、目を覚ました高橋が、隣で寝ているだろう亮子の方を手でまさぐった。

しかし、亮子の姿はなく、布団がぐっしょりと濡れていた。



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