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世界で一番嫌いな男と子どもが出来るまで、リディアはこの屋敷から出られない。
「どうして……どうしてよりによってその相手がユリシス・セリオンなの!? 悪夢よ。これはきっと悪夢を見てるんだわ……」
昔からユリシスとは気が合わなかった。今まで何度、彼に泣かされた事だろう。
何なら世界で一番嫌いだと言っても良いぐらい苦手だというのに、どうしてこんな事になってしまったのか。
リディアはそわそわしながら豪華なベッドの隅っこに腰掛け、初夜の相手を待っていた。ここは結婚を期にユリシスがリディアに買い与えた屋敷だ。
悪役令嬢だなんてレッテルを貼られて祖国を追放された所を拾ってくれた事には感謝している。
とても感謝しているけれど、相手は死ぬほど嫌いな男だ。
絶対に一筋縄ではいかないし、ましてやその彼との間に子どもが出来るまで敷地から出る事を許されないだなんて、一体どんな地獄だ。
それでもリディアがこの結婚を決めたのは、ひとえに国の為である。追放されるぐらいなら、祖国の役に立つ方がまだマシだ。
寝間着を握りしめる手にじんわりと汗が滲む。
閨の勉強もそれなりにしたけれど、家庭教師の体験談や今は懐かしい友人たちの初夜の感想を聞く限り、とてもじゃないが知能ある生物が行って良い行為ではない。
獣のように重なり合った挿絵を見た時、リディアはブルブルと震えてしまうほど恐怖した。そしていつかはそんな日が自分にもやってくるのだと、その日は毛布を被って朝まで泣いた。
それでも大好きな人となら我慢出来るかもしれないと、そう思っていたのにリディアの初夜の相手は——。
「ど、どうしよう……噛みつかれたりするのかしら……」
思わずあの挿絵を思い出して呟いたリディアの後ろから、やたらと艶のある声が聞こえてくる。
「噛みつく訳ないでしょう? 一体どんな勉強をしてきたんです?」
「ユ、ユリシス……」
ユリシス・セリオン。それがこの男の名前だ。柔和で穏やかな見た目に反して、心の内に獰猛な獣を飼っている。そしてその事を誰も知らない。
ユリシスは金色の長めの髪から滴り落ちる水滴をタオルで吸い取りながら、リディアの前に立ちふさがってこちらを見下ろしてきた。
「そんなに怯えなくても。私が相手では不満?」
「そっちこそ不満だらけでしょ?」
震える声で言い返すと、ユリシスは口の端を上げて微笑む。
「まぁそれはお互い様です。でもこんな機会を私が逃すわけがないですよね?」
その言葉には色んな意味合いが含まれている事をリディアはもう理解している。
このユリシスが長年に渡って犬猿の仲だったリディアと結婚したのは、政略結婚以外の何物でもない。
そしてリディアは表向きには同盟の為にセリオンに嫁いできたが、実際はそうではなくて祖国に売られただけだ。悪役令嬢というレッテルを貼られて。
ユリシスは水差しから自分の分だけ水を汲むと、それを一気に飲み干しリディアを見下ろして微笑みかけてくる。
「それにしても相変わらず不運ですね、君は」
「……どういう意味?」
「そのまんまですよ。だって不運でしょう? あれほど好いた相手とようやく婚約する事が出来たのに、さぁ結婚という所で世界で一番嫌いな男の手に落ちるなんて。これが不運で無ければ何なのです?」
「私があなたの事をこの上なく嫌っていたとしても、それは個人的な問題だもの。私一人の意見だけではどうにも出来ないわ」
「全く以てその通りです。では覚悟はもう出来ているのですよね?」
「で、出来てるわよ! さっさとしなさいよ!」
こうなったらもう後には引けない。外に出るためにはどうしてもこの男と子どもを作らなければならないのだから。
リディアは覚悟したようにそのままベッドの上に仰向けに転がり、両手を広げる。そんなリディアを見てユリシスがおかしそうに目を細めた。
「そんなまな板の上の魚のように転がられてもね」
そう言ってユリシスはリディアを跨ぐと、今度は真上からリディアを見ろしてくる。ユリシスの髪の先から雫がぽたりと落ちてリディアの頬に落ちた。
こんな角度から男性を見上げた事がないリディアは思わずゴクリと息を呑んで強く目を瞑ると、ゆっくりユリシスが近づいてくる気配がする。
そして次の瞬間、チュっと軽い音を立てておでこに柔らかな感触が落ちてきた。
「ひっ!」
リディアが驚いて目を開けると、ユリシスは薄ら笑いを浮かべ硬直するリディアの身体を軽々と抱き上げたかと思うと、ベッドに横たえ自分も隣に潜り込んできて片腕を枕にしてこちらを向く。
「し、しないの?」
「ええ。時間はまだたっぷりありますよ、リディア。ゆっくり子作りしましょうか、私と」
「……」
リディアはゴクリと息を呑んだ。
この世で一番嫌いな男、ユリシス・セリオンは、どうやら本気でリディアに狙いを定めたようだった——。