2−5
「……導き、さま……」
蓮の言葉に少女はぱあっと顔を明るくさせた。間髪入れずにぎゅうと抱きつく。
「ああ! 覚えておってくれはったん? ええこやなあ。可愛いわぁ!」
「うぐ! ちょッ……!」
「彼から離れてくれませんかねえ」
もしゃもしゃと頭を撫で回されているところに、聞き慣れない声音が前方から降りかかる。
蓮が目を開けると、総一郎が厳しい表情で歩み寄ってくるところだった。蓮はその視線が自分の首筋に注がれていることに気がつく。ほのかに青い光が発せられているが、いかんせん場所が場所なので何があるのか分からない。ただ、ジクジクとした痛みが巣食っている。
少女は蓮を後ろから抱えると、敷石の道をトントンと軽やかに後退する。少女は総一郎を半眼で見据え、不服そうな声を上げた。
「近寄らんといて欲しいんやけど?」
「彼についている跡を消してもらえませんか?」
「いややわぁ。なんで消さなあかんの? それにしても、めんどいものつけてくれたなぁ」
少女は蓮の首元を見て唇を尖らせる。そこにあるのは銀の首飾りだ。不貞腐れた声音は親に咎められた子供のよう。そんな少女の様子に総一郎は呆れ返ったようで嘆息した。
「……あなた、もともとそんな口調じゃないでしょう。中途半端に使うと、関西の人たちに怒られますよ」
「ええやん。この話し方、気に入ってるんやもん。京都弁は雅でええよなあ」
少女はご機嫌な様子で語る。完全に揶揄していると思われる言動に総一郎は眉をひそめた。彼の脇にはいつの間にか科戸が控えていた。しかし、少女の表情は曇るどころか嬉々としたものになる。
「なんか面白そうな話しとったから来たんやけど。うちも混ぜて欲しいわぁ」
「お断りです」
「ケチやなー」
総一郎の即答に少女は悪態をつき、舌を出す。しかし、一方の神主もケチで結構ですとバッサリと切り落とした。言葉は発しないが、科戸の視線とまとう空気が剣呑さを増していた。蓮の困惑をよそに、少女は再び顔を寄せて笑った。
「今日は挨拶に来ただけや。お二人さんの機嫌を損ねたないし。ここらへんでお暇するわ」
ふわりと少女の体が離れる。一拍置いた後、彼女の姿は瞬く間に数多の蝶へと変わり、一斉に空へと飛翔した。薄暗くなってきた空に飛び立っていった瑠璃がひどく輝いて見える。
「大丈夫ですか?」
「あ、は、はい……」
総一郎に声をかけられて蓮は我に返る。そのときになって急激に背筋が冷たくなった。
この世のものとは到底思えないような、蠱惑的な青。死に至らしめるような毒気を今更ながら感じる。そんな瑠璃の色に完全に見惚れていた。総一郎は蓮の首筋を改めて見遣ると、申し訳なさそうな表情をする。
「すみません。今の私ではその跡を祓えそうになくて」
なぜ謝るのだろうか。総一郎が顔を曇らせる理由が純粋に分からなかった。 蓮は戸惑いを覚えたまま、まだじくじくと痛む左の首筋に手を当てる。
「……い、いえ。ここ、どうなっていますか?」
疑問を口にすると科戸が小さな折り畳みの鏡を貸してくれた。首筋には青い蝶の跡が残っていた。光を帯びるきららかな青が目に染みる。
「普段は隠れているようですし、今でも一般の人には見えないはずです。彼女も帰りましたし、じきに消えると思います」
そうですかと蓮は総一郎に返す。これ以上見ていると吸い込まれてしまいそうな気がして、蓮は礼を言って科戸に鏡を返した。
自然と三人の間から言葉が失せる。境内は水を打ったような静けさだった。
「……このことを知っていたから、僕に声をかけたんですか?」
次いで出た問いはただ静かだった。蓮はじっと総一郎の様子を探る。彼はその視線から目を逸らすことなく、まっすぐに応じた。
「いえ、彼女のことに気がついたのは今日です」
信じてもらえないかもしれませんが、と一言添えて総一郎は言葉を締めた。
きっと彼の言葉に偽りはないだろう。しかし、蓮はすぐにそれに応じなかった。応答を期待していないのだろう。総一郎は気を害した様子もなく、言葉を続ける。
「祓うことができない者からの提案で申し訳ありませんが。あなたの気が今でも変わらないのであれば、変わらずここに通うことをお勧めします。少なくとも、彼女からの影響を減弱できる。あなたにとっても悪い話ではないと思います」
総一郎の提案を聞き、蓮は口を開きかけて噤んだ。再び沈黙が辺りを満たす。
程なくしてから、総一郎が返事はすぐでなくて構いませんからと微苦笑を浮かべた。それに対してもなんと答えていいのか分からなかった。二人の間を漂う鬱屈とした空気を祓うように、科戸がパンと両手を叩く。
「ま、今日はここまでな。予想外の事もあったし、家まで送らせてもらえないか?」
科戸の提案はありがたく辞退させていただこうと思ったが、向けられる視線があまりにもまっすぐで、蓮は折れた。正確には居心地が悪くて視線を逸らしながら、肯定の意を返した。
「……はい」
総一郎に見送られながら神社を後にする。いつの間にか辺りが暗くなっていた。それでも時間を見れば、ずいぶん日が伸びてきたと感じる。人目につくだろう科戸と並んで歩いていることを考えると、日が暮れる時間帯になっていたのは良かったのかもしれない。
沈黙を保ったまま二人は住宅街を歩いていたが、やがて科戸が静かに口火を切った。
「信用しろとは言わないけど、総一郎があんたのことを心配しているのは間違いないよ」
科戸の言葉に蓮は足を止める。視線を向けた先の科戸も気遣わしげな表情をしているように見えた。
どうして会って間もない他人を心配し、気遣うのだろう。慣れない感覚に何とも言い難い気持ちが募る。沈黙を貫いていると科戸が先に言葉を続けた。
「懲りずに来てくれたら嬉しいよ。今日と違って質素だけど、食事も用意するから」
気をつけてと一言添え、科戸は微笑むと音もなく踵を返した。気がつけば叔母の家までもう少しの道辻に差し掛かっていた。
その後ろ姿を見送ってから、ありがとうと言えば良かったのだと蓮はようやく思い至った。礼を怠らないようにした方がいいと、祖母がよく話してくれていたというのに。自分の許容の狭さに辟易するが後の祭りだ。いつもならもう少し上手くやれるだろうに、どうしてか空回っている気がしてならない。
冷たい風が髪を撫でる。せめて今度会うときには礼を言おうと思い立って、蓮は寒い家へと向かって歩いていった。




