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蓮は科戸の指導の下、境内の掃き掃除や社務所内の片付け、清掃などをこなしていく。単純作業は意外と嫌いではない。集中しているとあっという間に時間が過ぎていった。
「お疲れ様です。もう少ししたら上がりでいいですよ」
後半になって、科戸と入れ替りで蓮のもとに来た総一郎はそう告げた。休憩時間を挟んでいたので、実質の勤務時間は二時間と少しといったところだろうか。思わず蓮は聞き返す。
「もういいんですか?」
「はい。その代わり、ちょっとこっちに来てください」
総一郎に言われるがまま、蓮は社務所の中に誘われる。縁側に沿った一室に通され、現れた光景に目を見張った。
一番に目に飛び込んできたのは大きな座卓に用意された飯台だった。そこには海老とイクラ、サーモンや卵で鮮やかに彩られたご飯――ちらし寿司が盛られていた。その他にも脇には天ぷら、筑前煮、白和えなどが用意されている。何が起こっているか理解しきれなくて、蓮は混乱したまま神主に視線を向けた。
「……これは?」
「あなたの歓迎会です。さ、席について」
満面の笑みを浮かべる総一郎に背を押されるかたちで上座に着く。その間にも科戸が三人分の蓋付きの椀をそれぞれの席に配膳していた。彼女が席についたところを見計らって、総一郎が音頭を取る。
「蓮くん。仕事を受けてくれてありがとうございます。改めまして、これからよろしくお願いします」
いただきましょう、と言って総一郎がふわりと笑う。たおやかな所作で椀の蓋を取ると、湯気がほんのりと立った。
「よかったら食べて。口に合うといいんだけど」
科戸に勧められて、蓮はおずおずと椀を手に取った。 蓋を開けると香ばしい鰹節の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。透き通った出汁の中で三つ葉と蒲鉾、麩が揺蕩っていた。一口含むと、懐かしさとともに豊かな旨味と三つ葉の香りが体を満たす。
「美味しい……」
「それならよかった」
科戸は微笑むと、ちらし寿司をよそった茶碗を蓮に差し出した。
躊躇いがちに受け取って食べると、イクラが口の中でぷちりと弾ける。程よく脂がのったサーモンや甘めの卵、ぷりぷりの海老が酢飯によってひとまとまりになっていて美味い。旨味と温もりがじんわりと体に染みてくる。
温かいと思った食事はいつぶりだろう。思いがけず箸が進む。
「遠慮なく食べて」
箸を夢中で進める蓮を見て、科戸は嬉しそうに目を細める。ゆっくりと食事を取るのも久しぶりな気がした。最後には締めとして、ほうじ茶プリンがもてなされた。
「ご馳走さまでした。……すごく、美味しかったです」
「口にあったのならよかったです」
総一郎は満面の笑みを浮かべる。作ったのは私だけどねと科戸がそれとなくごちたが、その顔は至って穏やかだった。空いた食器が科戸によって下げられていく中、どこからともなく視線を感じて蓮は縁側を見遣る。黒い靄が数体、境内に立っていた。
「いらっしゃったようですね」
総一朗は蓮に視線を向けると、手を出してくださいと告げた。理由が分からないものの、従ったほうがいいと察して蓮は手を差し出す。
手渡されたのは銀の首飾りだ。細長いタグに文字のようなものが掘られているが、何が書かれているかはわからない。思ってもみなかったものに蓮は目を瞬かせる。
「魔除けです。これがあれば、よほどのことがなければ下手な干渉は受けませんから、できる限り身につけていてください。普通の人には見えません」
装飾類を着けることに一瞬躊躇うが、蓮は言われた通りに首にかけることにした。ひやりと冷たい金属が肌に触れる。
「では、ちょっとここで待っていてください」
「……いえ、一緒に行ってもいいですか?」
蓮の一言に、身を翻しかけた総一郎が思わず振り返る。驚いた表情を緩めて彼は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。もちろん」
総一郎の返事を受けて蓮は境内へと向かう。小さな社に集う黒い靄たちは以前よりも姿がはっきりとして見えた。靄が象るのは四、五人ほどの子供の姿だった。
少年少女たちの年齢はバラバラで体格も格好もさまざまだ。おそらく今の時代ではない衣服の子もいた。総一郎は静かに彼らに近づいていく。一人の少女のもとに屈み込んで軽く手を乗せると、穏やかな口調で語りかけた。
「……大丈夫ですよ。きちんとお預かりしますからね」
不安そうに揺れていた少女の瞳がゆっくりと伏せられる。彼女は心地よさそうに撫でる手を受け入れた。しばらくするとまとっていた靄が虹色の光となって空へと消えていった。すべてが終わった頃には、少女の姿は消えていた。
その後も同じように神主は子供たちに寄り添っていく。最後の少年が程なくして光へと変わり、総一郎は蓮に向き直った。
「彼らはあなたに惹かれてここへ来ました。似たような経験はあるんじゃないでしょうか?」
そう。あるときを境に今回のような靄を見ていた。そして、誰一人として手を触れていないのに物が動く、音がするといった心霊現象と呼ばれるものを体験するようになった。人を象る靄だけではなく、明らかにこの世のものとは思えない恐ろしい姿――いわゆる妖と呼ばれるようなものも見ることがある。
「……はい。そういうのは、わりと……」
「以前も話したように、ここは悪縁を断つ、捨てたいものを手離す場所です。ここが必要な人や迷い人は惹かれるようにこの神社に導かれる」
その言葉を聞いて、ここに来たことはきっと必然だったのだと蓮は思う。ただ、第三者から見ているような感覚で、自分の身に起こっていることなのだという実感はまるでなかった。