2−1
春休みに入り、蓮は自転車に跨ってのどかな景色の中をひた走る。
自転車で二十分ほど走らせると目的地に着いた。駐輪場に自転車を置き、草木が植えられている庭を通る。秋は花が色とりどりに咲き誇って綺麗だったのだが、まだ寒さが居座っているので庭はもの寂しい。中に入って受付を済ませると面会室に通された。
庭に面した面会室は窓が大きく、開放的で光に満ちている。部屋には利用者用のテーブルと椅子が何脚か置かれていた。窓辺に座る老年の女性の姿を見て、蓮は自然と安堵の息を漏らす。
祖母である琴子は孫の姿を見ると顔を綻ばせた。皺がより深まる。蓮はさりげなく祖母の様子を窺いながら、向かい合わせの席に着いた。
「蓮、元気?」
「ん。まあまあ」
「バイトは忙しいの? ご飯はちゃんと食べてる?」
「食べてるって」
会って早々、祖母の質問攻めにあって蓮は苦笑する。 期末試験があって面会に来るのは二週間ぶりだった。
施設で行われたレクリエーションやイベントなど、他愛もない話をする。桃の節句では皆で桜餅を作り、有志の合唱が行われたのだという。ぱっと見た感じでは祖母の様子に変わりはないように見えた。
「久しぶりに料理をしたけど、まあまあ上手くできたわ。蓮にも食べさせてあげたかった」
楽しそうに語る琴子を見て嬉しい反面、やりきれなさも迫り上がってくる。
およそ半年前、琴子は転んだ際に手をつき、右手首近くの骨を折ってしまった。診断名は橈骨遠位端骨折。手術は無事に終わったが、もともと変形性膝関節症を患っていた祖母は要介護認定で要支援2とされ、叔母の強い希望があって有料老人ホームへ入所した。要介護認定を受けるか悩んでいた矢先のことで、骨折が申請の契機となった。
膝に痛みを抱えていたとはいえ、ほとんど身の回りのことをこなしていた祖母が入所することを決めたのは、自分に迷惑をかけないためだろうと思っている。そのため、蓮はできる限りを心がけて面会に訪れていた。
面会の時間はあっという間に過ぎ去る。面会室を後にする直前、琴子は寂しそうな笑顔を浮かべる。
「春休みもバイトなんだろうけど、あまり無理しては駄目だからね?」
「わかってるってば」
心配性の祖母に蓮は苦笑するしかない。面会室を出て琴子を職員とともに部屋まで見送る。 施設の出入り口に向かおうとした際、誰かに呼びかけられて蓮は足を止めた。五十歳代の女性は施設の制服に勅使河原という名札をつけている。
「早見君。ちょっといい?」
勅使河原は祖母の入所当時、現状についていけずに困惑していた蓮をいつも気にかけてくれていた人だ。この施設でも古参の職員で人当たりもいい。勅使河原が声をかけてきたことに安堵しつつも、相反するように不安が芽吹いていた。
「どうかしたんですか?」
「いえ、ちょっとね。琴子さんのことで」
不安が的中して心がざわめく。ふくよかな顔に似合わない心配の色を浮かべて、勅使河原はためらいがちに口を開いた。
「琴子さん、この冬から食欲が落ちてきていて。もの忘れも前よりちょっと多い気がするのよ。しばらく様子を見ていたんだけど、早見君には伝えておこうと思って」
勅使河原の言葉が腹に重くのしかかった。しかし、今の自分にはこれ以上できることがないと知っている。蓮は伝えられた現状を飲み込んで勅使河原に頭を下げた。
「……ありがとうございます。また来ます」
それだけ告げると施設を後にする。家への道すがら、勅使河原の言葉が何度も頭の中で繰り返されていた。
自宅に帰って一息ついてから、蓮は茹で卵を乗せたもやしたっぷりのインスタントラーメンで腹を満たす。そのあとはベッドにうつ伏せで寝転がりながら、携帯電話と睨み合いをしていた。いや、正確に言うならばそこに表示されているスーパーのチラシだ。
「うーん……。高くなったなぁ」
祖父が他界したのが約二年前。二人暮らしをさせるのは心配だと父から話が上がり、蓮と琴子は父の妹――叔母の家に身を寄せることになった。叔母は降って湧いた同居話に初め難色を示したのだが、金銭面で折り合いをつけたのか、最終的には二人を家に招き入れた。しかし、叔母も働いている身であり、実の家族とも顔を合わせる時間がほぼない。そんなわけで、昼や夕食は自分でなんとかしなさいという話になっている。蓮もそれに不満はない。むしろ気が楽だった。
何が問題かといえば、自分で食費を捻出するというところだった。普通の高校生にしては多い一万円という小遣いも、食費が含まれると話は別である。出来る限り貯蓄に回したい蓮にとっては悩ましい問題だった。
コンビニで買えば高くつくし、惣菜も続ければ出費が嵩む。それに気づいて自炊をしているのだが、如何せん得意とは言えない料理とお金のやりくりにいつも悩まされている。バイト先の居酒屋が急に店をたたむことになり、まかないで食費を浮かせていた蓮にとってはこの一ヶ月はこの上ない痛手だった。面接を受けても先に採用者が決まってしまうという不運が続き、塞ぐ気持ちに追い討ちをかけている。蓮は気分を変えるようにごろりと寝転がった。
六畳一間の洋間には小型の冷蔵庫や炊飯器、電気ケトルといった家電製品が置かれている。キッチン周りはやたら無闇に触らないで欲しいという叔母の要望があり、祖母が入所した後に買い与えられたものだ。費用はすべて父が出している。さすがにコンロやシンクは使っていいと言われているが、叔母の不興を買いたくない故に、ここの家人とはできるだけ顔を合わせないように配慮している。
いっそ一人暮らしをさせて欲しいものだが、そうもいかないらしい。何より金がかかるし、一度受け入れた甥を今更放り出すとなると世間体が悪いのだろう。仰向けになって、蓮は息苦しさから息をついた。
早く一人暮らしをしたい。叶うならば、祖母との二人暮らしに戻りたい。そのためには資金が必要だ。それならば、湧いて出た誘いに迷うべくもないのだ。
今日送り返されたメールを改めて確認する。電子書類にある署名は紛れもない父のもの。アメリカでME機器の営業をしているらしい父は顔さえ曖昧だ。名前を見ても郷愁や哀愁も浮かばない。
そんなことよりも、新しいバイトのことを叔母に報告しなければならない。蓮はどのタイミングがいいだろうかと内心でため息をつく。悩んでいるうちに眠気に負けて、変な時間に寝入ってしまった。
家人の用事が落ち着いたところを見計らって風呂に入る。最後に風呂に入るのもこの家に来たときに課せられた約束事だった。叔母の娘、つまりは蓮の従姉からの要望である。他にある決まり事も郷に入っては郷に従えの精神で、どうにか乗り切っている。
風呂上り、着替えた蓮は不意に洗面台の前で足を止めた。
鏡に映るのは色白でやや華奢な体つきの少年。はっきりとした目元に長い睫毛という顔立ちは中性的を越して女性寄りだ。
一瞬だけ視界にとどめて、蓮はすぐさま鏡から視線を外した。自分の顔立ちも筋肉がつきにくい体も、男にしては少し高めな声も、どれもが嫌いだった。
陰鬱な気分と寒さから逃れるように、すぐさま蓮はベッドへと潜り込んだ。