1−2
狐につままれたのではないかと心底思う。
あの奇妙な出来事に遭遇してから、浮き足立ったまま数日が過ぎた。気になった蓮は何度か帰りがけに神社を覗いてみたが、至って変わりない古い社が出迎えてくれただけだった。白昼夢だったのだろうかと思うが、いよいよ笑えなくなってくるのでそれはないと強く否定する。
そうこうしている間に終業式が明日に迫っていた。部活動に入っていない蓮はコートとマフラーを片手に図書室へ向かった。春休み前にいくつか本を借りておく予定なのだ。
図書室は生徒が通いやすいように昇降口の近くに配置されている。入り口を前にして、いっそ奥まったところにある方が落ち着くんだけどなと蓮は一人思う。
扉を開けると整然と並ぶ木製の本棚と机が視界に入る。採光の窓が大きく図書室内は明るい。人はまばらだ。入り口左手側にあるカウンターの前を通ると女性の司書がいて、蓮は会釈をした。
本を借りるといっても特別好きな作家がいるわけではない。そのとき気になったものを手にして読むのが好きだった。カウンターのそばに図書委員おすすめの本棚があって、何気なく視線を向ける。
本とポップが以前のものと変わっていた。春の読書週間という文字が並ぶのを見るに、春休みに向けて図書委員が内容を一新したのだろう。蓮はその中から本を二冊見繕う。ふと目にとまったもう一冊を借りることにしてカウンターに戻ると、見慣れた人影があった。
「加賀谷さん」
蓮が声をかけると少女はパッと振り返った。大きい瞳が印象的で、少し色素の薄い髪は左サイドに緩くまとめられている。セーラー服の赤いスカーフが色彩の薄い季節によく映えた。
加賀谷一花。同級生である彼女とはクラスは違ったが、互いによく図書室に足を運ぶことから顔見知りとなり、会えば話をするぐらいになっていた。彼女は文芸部に所属して小説を書いている。春休みに備えて本を借りに来たのだろう。一花がふわりと微笑む。
「早見くん。もう春休みだね。早いね」
「……そうだね。加賀谷さんは何を借りるの?」
触れたくない部分に話が及びそうになり、蓮は話題をそれとなく逸らす。蓮の予想通り、好きなことに話が移行して一花は顔を綻ばせた。
「ちょっと前に入った、本屋大賞受賞した本を借りようと思ってて」
蓮は手持ちの中にある唯一のハードカバーの本に視線を落とす。まさに彼女が語る本屋大賞を受賞した有名作品だった。
「もしかしてこれ?」
「あ、うん、それ!」
一花の返答を聞いて蓮は迷いなく本を差し出す。彼女は驚いたようで目を瞬かせた。
「よかったら先に借りて」
「え? それは悪いよ……」
「僕はいつでもいいから」
正直、借りようと思ったのは気まぐれだ。読みたいと思っていた人が先に読むべきだと素直に思った。彼女はわずかに躊躇った後、本を受け取る。
「そ、それじゃあ借りるね。ありがとう」
一花ははにかんだ笑顔を浮かべると、本を受け取った。司書に視線を戻し、彼女はカウンターに積まれていた本を手に取る。
「じゃあこれ、一緒に戻しておきますね」
「加賀谷さん、ありがとうね」
三十代半ばの女性司書は申し訳なさそうに礼を言う。一花は探すついでですから、と言って笑うとその場をあとにした。カウンターに溜まっていた返却物をついでに持っていったのだ。彼女らしいと思う。一花の姿を見送ってから、蓮は借りる本を選び直すことにした。
本を選び終えて貸出の手続きをしている中、蓮は不意に視線を感じて目を出入り口に向ける。そこにあるものを見て、蓮は自身を宥めるようにそっと息を吐いた。
入り口にあったのは人影だ。それは比喩ではなく、正しく人の形をした黒い靄だった。
背丈は小学校中学年ぐらいだろうか。ここからは目は見えないが、視線だけは嫌に感じる。窓から入る暖かな日差しには似つかわしくない黒。それと同じく悶々とした気持ちが募る。その脇を何事もなく、眼鏡をかけた長身の男子生徒が通り過ぎていった。
「明後日から春休みだね。気をつけて楽しんでね」
司書は何気なくそう告げた。蓮はそれに対して曖昧に笑ってみせる。ふと本棚の方に視線を向けると、先ほどの男子生徒と一花が話しているのを視界に捉えた。
彼もよく図書室で見かける人だった。一花と同じ文芸部の先輩らしく、ここ一ヶ月はよく一花と話をしているのを見かけた。一花の表情がやや緊張しているように見えて気になったが、蓮は早急に荷物を持って図書室の出入り口に向かった。
扉にたどり着く前に、靄はふいと外へと向かって歩き出す。顔が強張るのを感じながらその後を追うと、今度は昇降口前に黒い靄が立っていた。
校庭から快活な声が聞こえてくる。部活に所属していない者はほぼ帰宅したのだろう。昇降口に幸い人はいなかった。人型を保っているが靄は流動的で、ちらりとその陰からふっくらとした輪郭と大きな瞳が覗いた。好奇心が旺盛な少年の目だった。
蓮は靄の近くにゆっくりと歩み寄る。今度は逃げなかった。行こうと小さく声をかけると、靄は大きな瞳をきょろりと動かして後を追ってきた。
蓮は何事もなかったように正門を潜る。しばらくは蓮が先に立って道を歩いていたが、唐突に靄が走り始めて慌てて小走りで追った。身長差があるので追いつくのにはそう時間がかからなかった。靄がおもむろに足を止めた先で、蓮は息を呑んだ。
白い鳥居が目の前にそびえている。この地域には大小たくさんの神社があったが、白い鳥居は見たことがない。学校近くにも覚えがなかった。心臓がどくりと脈打ち、蓮はある予感を抱きながら境内の中に視線を移す。
敷石の道に佇むのは長い髪を結えた男性。数日前に助けた男性だとすぐに分かった。
改めて見ると歳は二十代半ばか後半といったところだろうか。この間とは違って白の着物に紋の入った白地の袴を履いている。藤が中央と縁に配置された円形の紋。全身白という出で立ちは鳥居の先でも際立って見えた。
靄は彼のもとに走り寄っていった。男性は屈み込むと優しい手つきで人影の頭に手を置く。二人は何か言葉を交わしているように見えた。
男性は靄の手を取ると柔らかく目を伏せる。それから程なくして人影が頭部から形を崩していった。靄が虹色の光を伴いながらゆっくりと消えていく。蓮はその様子をただ見守ることしかできなかった。
いつの間にか男性が立ち上がってこちらを見ていた。この世とは思えない澄み渡った空気が肺を満たす。
この間と違って男性の血色は良い。しかし、それに安堵するよりも、ぞくりとする。
まるで人形だ。端正すぎる顔立ちに絹のような亜麻色の髪と瞳。均衡が整った体躯。通った鼻筋に加え、瞳は長いまつげで縁取られていた。どれか一つでも崩したら無意味だというような均衡で成り立っている。
何もかもが異常だった。この場所も、男性も、あの靄が消えたことも。
自然と喉が鳴る。心臓が早鐘を打って、冷たい汗が滲んでいた。
白い鳥居を境にして、両者の間には彼岸と此岸のようにくっきりと隔たりがあった。向こう側に行ってしまえば、もう戻ってこられないのではないかという錯覚に襲われる。
「こんにちは」
男性がふわりと笑う。張り詰めていた空気が緩んで、蓮は殺していた息を思い出す。そこで自分が極度の緊張に襲われていたことをようやく自覚した。気づいたときには男性がすぐそばまで歩み寄っていた。
「この間はありがとうございました。こうしてまた会えてよかったです。ぜひお礼をしたくてお呼びしました。よければ、少し時間をもらってもいいでしょうか?」
「は、はい……」
それとなく断るべきだろうに、いつの間にか蓮は頷いていた。