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とかく人の世は住みにくい。草枕の冒頭の一節には全力で同意せざるを得ない。
憂鬱な春休みが始まる。どこでどう過ごそうかと思いながら、早見蓮は最寄り駅から家路をたどる。 頼みの綱のバイトはおよそ一ヶ月前に辞めざるを得なくなった。早く次が見つからないかなと、心の中で独りごちる。
不意に風が短い黒の髪を乱暴に撫でて通り過ぎる。蓮は身を縮こまらせながら軽く息をついた。白く色づいた呼気を眺めながら首元のマフラーに口を埋める。この地域ではいまだ雪がちらつく三月の半ば。空は透き通った冬の色をしていて、春なんてまだまだ先に思えてしまう。
同級生たちが浮き立つ春休みも蓮にとっては憂鬱という以外に他ならない。かと言って、学校にいるのが気楽かといえばそうでもないのだが、家にいるよりかは随分とマシだ。
だというのに、ここ長野県は全国と比較して学生の春休みが長いのが特徴だ。引っ越して初めて知ったときは驚いた。高校はまだそれほど長くないとはいえ、この地域に移って二回目の春休みを目前にして鬱々とした気持ちが募っていく。
下がりがちだった視線をふっと上げたときだった。のどかな住宅街の中に違和感を覚えて足を止める。 道路の片隅で人がうずくまっていた。長い髪を結っているが、体格からして男性だろうか。声をかけるべきか迷う。
きっと足を止めなければ通り過ぎることができた。落ち着かないまま立ち尽くしていると、男性の肩が揺れた。蓮は逡巡ののちに男性のもとに歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
長い亜麻色の髪が一つに結えられ、シャツから白い頸が覗く。濃紺のスーツを着ているところを見るに会社員だろうか。想定していたよりもだいぶ若い人だったことに驚いていると、俯いていた顔がわずかに上がった。
「ああ、すみません……」
覇気のない声だった。これは予想より深刻な事態だろうか。どくどくと心臓が跳ね始める。救急車案件かと思っていると男性がゆるりと顔を上げた。
「もしよかったら、肩を……貸してもらえませんか? あの神社までで、いいので……」
男性は前方を指差した。そこには確かこの地域に根差した神社がある。
大きな神社ではないが、誰かしらいるはずだ。状況が分からない上に医療知識がほぼない者が判断を下すのは危険すぎる。彼が言う通り、神社に行って判断を仰いだ方がいいだろうと蓮は結論づけ、 男性のそばに屈み込む。
「分かりました」
「……ありがとう、ございます」
礼とともに男性の顔が長い髪から覗いた。うっすらと汗がにじみ、顔色も思わしくない。ただ、男性は端正な顔に柔らかい笑みを浮かべていた。蓮は少し近づき難さを覚える。
しかし、すぐに気を取り直す。蓮はすみませんと声をかけてから男性の腕を肩に回して立ち上がった。男性は思ったよりもしっかりとした体つきだった。足腰に力を込め直す。こういうとき、いっそう自分の体格に悪態をつきたくなる。
「……大丈夫、ですか……?」
「大丈夫です」
蓮は男性の心配を振り払うようにそう返した。男性の様子を伺いながら、ゆっくり歩みを進めていく。体重の多くを他人に預けているとなると、やっぱり具合がよくないのだろうと蓮は一人思案する。 すぐそこだと思っていたが、いつもと違う状況下では距離が倍以上に感じた。赤い鳥居の下について、境内に足を踏み入れたときだった。
「わッ……!」
ぐらりと男性の体が傾く。蓮は肩からずり落ちる男性の体を咄嗟に支えようとした。しかし、上手くいかずに一緒に地面に崩れ落ちてしまう。弾みでどこか打ち付けてしまったのではないかとヒヤリとした瞬間、柔らかな風が吹いた。
蓮は導かれるように顔を上げる。その途端にいい知れぬ感覚が背筋を這っていった。
小さな社が奥に鎮座し、瑞々しい広葉樹と針葉樹が境内を囲っていた。石畳の参道が本堂に向かって一直線に伸びる。柔らかな日差しはまるで春のような暖かさだ。
しかし、今は春分さえ迎えていない時分。目の前に広がる瑞々しい木々や温かな空気はありえないものだ。 それだけではない。異常と思えるほどの清廉な空気に満ちていて、心が慄く。神社は記憶の中にあるものとはまったく違う光景を眼前に晒していた。
異常な光景を前に喉がカラカラに乾き、指さえも微動だにしない。胸が異常なほどに早鐘を打つ。そんな矢先、一つの人影が右手側の建物から現れた。
黒髪の女性だ。浅葱色の小袖に白い細帯。肩につかない長さの髪は後ろにかけて斜めに綺麗に切り揃えられている。女性にしては背が高く、凛とした佇まいと雰囲気に視線を奪われた。
女性は言葉なく男性のもとに近づくと一瞥し、屈み込む。すぐに視線が向いて蓮は体を強張らせた。少し低めの落ち着いた声が耳を打つ。
「ありがとう、ここまで運んでくれて。あとは大丈夫だから」
涼やかだけれど、決して威圧感のない声音。しかし、次の瞬間、蓮は額に指先を当てられて完全に動きを止めた。
「また来て」
柔らかな風が身を優しく包み、重怠かった体が途端に軽くなった。次いで突風に見舞われて、蓮は咄嗟に目を瞑る。風が収まったところで恐る恐る目を開け、言葉を失った。
目の前にあるのは古びた神社と年季の入った手水舎。冷え冷えとした空気が身を包む。針葉樹に囲まれた小さな神社は見覚えのある姿と相違ない姿だった。
蓮は目の前に広がる光景を茫然と見つめることしかできなかった。