2-3.運命の別れ(下)
その日の午後、廊下の窓辺には硝子越しの光が淡く降りていた。
アリシアは、父の執務室の扉の前に立っていた。
緊張のあまり浅くなった呼吸を整えようと、小さく息を吸う。けれど、胸の鼓動は一向に静まる気配がない。
むしろその小さな音のひとつひとつが、自らの意志を打つ楽器のように、内から彼女をせき立てていた。
──この扉を開けば、もう戻れない。
父に王子との婚約を自分から断りたいと告げることが、何を意味するかはわかっていた。
それは王家からの申し出の拒絶であり、侯爵家にとっては名誉にも富にもかかわる重大な損失である。
それを、長女たる自分が壊そうとしている。理解している。
けれど、それでも。
あの夜に崩れていった自分を、ただ繰り返すわけにはいかなかった。
何も選べなかった過去を踏み越えて、いまこの手で新たな未来を掴むと、そう願うのなら──立つべき場所は、ここしかなかった。
「……お嬢様?」
扉がわずかに開き、控えめな声音がかけられた。
現れたのは、老執事クラレンス。白髪とおだやかな声が、少しだけアリシアの緊張を和らげる。
「ご主人様は、おひとりで執務中です。お入りになりますか?」
頷くようにして、アリシアはひとつ、言葉を落とす。
「……ええ。ありがとう、クラレンス」
そのまま扉をくぐると、空気が静かに変わった。
書斎には紙とインクの香りが満ち、机の上には積み上げられた文書が並んでいる。
父──オスカーは、ペン先を止めて娘を見やった。
瞳は鋭くも、その奥におだやかさを見つけることができる。
「アリシア? どうしたんだ、急ぎの用か」
整えられた背筋、揺るがぬ威厳。幼い頃から変わらない父のその姿。
だが緊張こそすれ、父を恐れる気持ちはいまはそれほどなかった。自分の言葉に耳を傾けてくれるはずだという、今朝のあたたかい時間の中で芽生えた確信があった。
「お父様……少し、お話があります」
「うむ。そこに座って話しなさい」
示された椅子に、アリシアは腰を下ろした。
膝の上で組んだ手は冷たく、指先は細かく震えていた。
言葉が、頭のなかでまとまらない。
心ははっきりしているのに、声になるとすべてが壊れてしまいそうだった。
けれど──ここで口をつぐめば、次の機会がいつ訪れるかなどわからない。
目の前の岐路を逃せば、あの夜と同じ後悔がまたすべてを塗り潰してしまうだろう。
「……婚約の、お話です」
乾いた唇から絞り出した声は、思ったよりもかすかだった。
けれどそれは、今の彼女にできる、精一杯の一歩だった。
「……エドワード殿下との?」
父の声が応じる。
わずかに眉が動く。それは苛立ちではなかった。ただ続きを促すように、オスカーは黙ってアリシアを見つめた。
「……はい。私……殿下との婚約を、お断りしたいのです」
その言葉を口にした瞬間、場の気配が変わった。
目に見えない何かがすうっと部屋から抜けていったようで、書斎に広がっていた静寂は、先ほどまでとは質を変えた。
父はなおも何も言わず、アリシアもそれ以上は口にできず、しばし沈黙が続いた。
「……理由を聞いても、いいか?」
その声は、意外なほどやわらかかった。
怒りでも、戸惑いでも、ましてや失望でもない。
ただ、娘の中にある言葉を、静かに待とうとする声だった。
「……あの……」
言葉がすぐには出てこない。
本当の理由──前世の記憶、裏切り、死。
そんな重すぎる真実を、この場で語るわけにはいかない。
父を混乱させるだけでなく、自分が言葉にしてしまえば、何かが決定的に崩れてしまいそうだった。
それでも、何かは言わなければならなかった。
震える膝を隠すように、アリシアは膝の上で拳を握り締める。
「私は……私の人生を、自分で選びたいと、思いました」
その言葉には、確信と不安が同時に宿っていた。
背筋を伸ばしながらも、指先には冷えた怯えが残っていた。
「ただ決められた道を、なぞるだけの娘ではなく……」
声が震えそうになるのを押し殺し、アリシアは顔を上げて、父の瞳をまっすぐに見つめた。
その中に映る自分の姿が、幼くも、意志を宿していた。
「わがままなのは、わかっています。この家にとって、どれほど大切な縁談かも、頭では理解しています。でも……それでも、私は……」
唇が震える。言葉が詰まる。
声が涙に押し流されそうになる。
それでも父は、娘の言葉を黙って聞いていた。
遮ることも、表情を変えることもなく、まるで沈黙そのものが、いちばん深い返答であるかのように。
その沈黙のなかで、アリシアは初めて、父の前で“娘”ではなく、“ひとりの人間”として話そうとしていた。
長く、重い沈黙が室内に垂れこめた。書斎の時計が時を刻むその間、オスカーは深く思案していた。
やがて、低く抑えられた声が、その静寂を切り裂く。
「……アリシア。それは、誰かに吹き込まれたのか?」
その一言に、アリシアの肩がわずかに震えた。
けれど、すぐに強く言い返す。
「ちがいます……! これは、私の気持ち。私の言葉です……!」
喉の奥で震える声。けれど、その瞳は揺らがなかった。
父は再び彼女を見つめた。
そのまなざしは、長年見落としていた何かを探すような、慎重な問いかけの色を帯びていた。
やがてオスカーは、静かに席を立つと、歩み寄ってアリシアの傍らに立ち、そっとその頭に手を置いた。
ふわり、と。手のひらに絡め取られるように、金糸の髪がゆるく揺れる。
「……そんなに、嫌だったのか」
その声音は驚くほど穏やかで、そして深く。
彼が娘の言葉をただ聞いたのではなく、その奥にある心の声に耳を澄ませた証だった。
「……はい……」
アリシアは、こくりと頷いた。それだけしか言葉にできなかったが、その瞳の色がすべてを語っていた。
オスカーはそれ以上は何も問わず、ただひとつ頷いた。そして、まっすぐに言った。
「よし。わかった。では、私から陛下に断りを入れよう」
「え……?」
思わず顔を上げたアリシアは、父の口元に浮かんだ微笑を見て、目を見開いた。
それはかつて一度も見たことのない、父でしかない男の顔だった。
「わがままでも構わん。娘が涙を流すのを、私は黙って見てなどいられんよ」
それはひとりの親として、たったひとりの娘に向けた揺るぎない情だった。
「それにお前は昔から、自分の気持ちを口にしない子だった。……それを、いまこうして伝えてくれた。それだけで充分だ。父としては──お前に無理をさせ続けるほうが、よほどつらい」
その言葉たちは、乾いた土に降り注ぐ雨のようだった。
前の人生で、アリシアは父と真正面から言葉を交わすことすらできなかった。
期待を裏切るのが怖くて、傷つくのが怖くて、いつしか本当の自分をしまい込んだ。
だからこそ、何もかもを見失ってしまった。
「アリシア。お前の人生は、お前のものだよ」
けれど今、父はまっすぐに自分を見て、認めてくれている。
「ありがとう……お父様……。ほんとうに、ありがとう……」
こぼれ落ちた涙は、悲しみのものではなかった。
心の芯で凍りついていた感情が、ようやく溶けてゆく。
ぬくもりの輪郭をなぞるように、こぼれ落ちた雫は、少女の頬を静かに伝った。
その日、アリシア・レイモンドの運命は、確かに別たれた。
王太子エドワードの婚約者として定められた未来から、誰のものでもない、ただひとりのアリシアとして──。
自らの足で選び取る新たな道へと、そっと踏み出していた。