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2-2.運命の別れ(中)

 

  

 自室に戻った瞬間、アリシアは背を扉にもたれかけ、そっと息を吐いた。

 

 ゆっくりと息を吐く。深く、けれど定まらず、震えるような呼吸。

 喉の奥で、何かを押し殺すようにして、音もなく吐き出されていく。

 

(……まだ、動揺している)

 

 そう自覚してはいても、それはもうどうしようもなかった。

 食堂を辞したときに浮かべた微笑みは、おそらく不自然ではなかっただろう。

 きちんと形を保ち、礼儀正しく、模範的で、欠けたところのない笑顔だったはずだ。

 

 けれど、額にはうっすらと汗が滲んでいた。喉は乾き、声を出せば擦れるような感触があった。

 

「……はあ……」

 

 アリシアは胸に手をあてた。ドレス越しに感じる鼓動は、思っていたよりも早く、かすかに震えていた。

 

 過去に怯え、未来に迷う。その狭間で、彼女はただ、立ち尽くしていた。

 息をすることすら、ほんの少し怖くなる。

 

 この空間に満ちる静けさはやさしく、それだけに残酷でもあった。

 誰にも見られていないという安堵と、誰にも触れられないという孤独が、背中合わせに在る。

 

 

 そのとき──扉が、朝のように控えめにノックされた。

 

「お嬢様。グレイスでございます」

 

 変わらぬ、落ち着いた声音だった。

 低すぎず高すぎず、過不足のない響きが部屋の空気を伝う。

 

 アリシアは扉から一歩身を離し、静かに返事を返した。

 

「……入って」

 

 返事を聞いたグレイスは、丁寧に取手へと手をかけ、音を立てぬようゆっくりと扉を押し開けた。

 朝と同じ、青灰の制服姿。凛とした清潔な立ち姿がそこにあった。

 

「失礼いたします。お加減はいかがですか?」

 

 その言葉は、問いというよりも様子をなぞるようなかたちだった。

 

「……ありがとう、平気よ」

 

 アリシアは、ほんのわずかに微笑んだ。

 たとえ心の奥に波が残っていたとしても、そうしておだやかな顔をつくることを、彼女はいつの間にか覚えてしまっていた。

 

 グレイスはしばしその笑顔を見つめていたが、何も言わずに目を伏せると、窓辺へと歩いていった。

 

「お部屋の空気……少し重たく感じます。窓を、お開けしてもよろしいですか?」

 

 それはここにふさわしい言葉を探して置かれたような、静かな提案だった。

 

「ええ……お願い」

 

 小さな頷きに、グレイスが手を動かす。

 窓が開かれると、外からの風がそっと部屋へ流れ込んできた。

 

 カーテンが一度ふわりと膨らみ、そして風とともにゆっくりと後ろへと流れていく。

 薄布が描くその軌跡を、アリシアは言葉もなく目で追っていた。

 

 閉じられた部屋に、外の気配が混じる。

 風は何も言わず、何も問わず、ただ頬をなぞっていった。

 

 室内には、ふたりの気配だけがあった。

 

「……今日は、よく笑っていらっしゃいましたね」

 

 ぽつりと落とされた言葉に、アリシアの背がかすかに強ばる。

 グレイスは窓の向こうの遠い空へと視線を投げていた。

 

「本当によく、笑っておられました」

 

 その声には、何の詮索もない。

 ひとりの少女の揺れを、そっと包むようなやさしさがあった。

 

 アリシアは言葉を返せなかった。返そうとして、喉の奥が詰まった。

 

 ──だって、それは仮面だったのだ。

 誰にも悟られぬように貼りつけた、うつくしい娘の顔。

 誰かに愛されるため、誰にも嫌われないために習得した、完璧な笑み。

 

 グレイスは、ゆるやかに振り返る。

 視線が交差した。嘘のない真摯な瞳が、アリシアを見つめる。

 

「無理をなさることは、ありませんよ」

 

 そのひと言に、アリシアは動けなくなった。

 

(──どうして)

 

 どうして、気づいてしまうのだろう。

 どうして、こんなにおだやかに見抜いてしまうのだろう。

 

 笑顔の綻び。感情の揺れ。

 隠したはずの震えが、彼女の目にはきちんと映ってしまったのだ。

 

 伏せた視線の先に、ぽたりと雫が落ちた。

 すぐに手の甲で拭ったけれど、それは止まらなかった。

 

「なぜ……私が無理を、していると?」

「お嬢様の笑顔には、ときどきほんの小さな影が混ざるのです」

 

 そう告げたグレイスは、なおもまっすぐにアリシアを見ていた。

 

 アリシアは思わず瞠目する。

 軽い否定の笑みすら浮かばず、ただ口元がわずかに開く。

 

「……グレイス、そんなの……わからないわよ」

「いえ、わかります。それが私の仕事ですから」

 

 声には、侍女としての節度が守られていた。

 けれどその言葉は、どんな慰めよりも深く、やわらかに彼女の心に触れてきた。


 普段は誰よりも距離を保ち、礼儀を崩さぬこの人が、なぜか──いま、誰よりも近くにいるように感じられる。

 否、それは錯覚ではなかった。グレイスは、いつだって傍にいたのだ。


 幼い頃から、侍女として。言葉少なに、しかし絶えずアリシアを見守り続けてきた。


 家族が慣れてしまう日常の中で見逃していく微細な変化。

 紅茶の減り方、黙るときの呼吸の間、視線が泳ぐ瞬きの回数──そういった小さな兆しを、誰よりも早く見つけること。

 それこそが、彼女の職務だった。

 

 思えば前の人生でも、アリシアは家族にさえ吐けなかった弱音を、この人にはふとした拍子にこぼしていた気がする。

 言葉でなくとも。沈黙や、視線や、俯き加減で。

 

 グレイスは、気づいていたのだ。

 何も言わず、すべてを黙って受け止めていたのだ。

 

 アリシアは唇を噛んで、視線を落とす。

 張りつめていた仮面が、剥がれ落ちた。

 

「……ずるいわ」

 

 こぼれたのは、苦笑とも、嗚咽ともつかぬ声だった。

 かすれたその言葉に、いくつかの感情が重なっていた。

 

「お母様にも、お父様にも、気づかれなかったのに……」

 

 ぽたり。

 涙がまたひとしずく、床に落ちる。

 

 グレイスは何も言わず、アリシアのもとへと歩み寄った。

 

 迷いも、ためらいもなく──けれど慎み深く。

 整えられた髪に、そっと手を添える。乱れてなどいないその髪を、まるで傷に触れるようにやさしく撫でた。

 

 そこには職務の中に滲んだ、祈るようなやさしさがあった。

 

「……私……どうしたらいいのか、わからないの」

 

 声は震え、途切れがちだった。

 喉の奥でひっかかるような呼吸が、涙の余韻と重なって、かすかな音になった。

 

 けれどそのひと言をようやく吐き出したとき、グレイスは迷わずに、そっと応えた。

 

「わからなくて、当然です」

 

 言葉はおだやかで、けれど深い芯を宿した声だった。

 慰めでも、大人びた忠告でもない。寄り添うためだけに紡がれた、揺るぎない真実の響きがあった。

 

「お嬢様は、いつもよくできた娘でいらっしゃいました。けれどそれは、お嬢様のままでいるために必要なものではありません」

 

 アリシアは、涙の残る目でグレイスを見上げた。

 言葉の意味がすぐには掴めず、問いかけるように首を傾ける。

 

「……どういう、こと?」

 

 グレイスは、ふっと微笑んだ。

 そのまなざしは、少女の髪を撫でる手つきのようにやわらかく、深い。

 

「お嬢様が笑えば、旦那様も奥様も、アーサー坊ちゃまも、お喜びになります。けれど──私は、あの笑顔が“本物”である日を、いつも願っておりました」

 

 アリシアの瞳が揺れた。

 その言葉は、あまりにもやさしく、痛かった。

 

「どんな未来を選ばれるかは──お嬢様自身のお心で、お決めになってください」

 

 まっすぐに。けれど決して押しつけることなく。

 そっと語られたその言葉には、命令でも忠言でもない、ひとつの信頼が宿っていた。

 

 決めてよいのだと。あなた自身で選んでよいのだと。

 そう、教えてくれた。

 

 本物の笑顔と、そうではない笑顔。その境目は、とっくに自分の中では曖昧になっていた。

 繕うことと、微笑むことの違いさえ、いつしか判然としなくなっていたのに──それでも、彼女にはわかっていたのだ。


 自分にはもう見分けがつかなくなったものを、グレイスだけは静かに見分けてくれていた。

 

 

 アリシアは、しばらく黙っていた。

 何も言わず、何も動かさず、静けさに身を預けて目を閉じた。

 

(私は……どうしたいの?)

 

 自分自身への問いだった。

 誰かの期待でもなく、評価でもなく、ただ、いまこの瞬間の、自分の声として。

 

 まだ──すべてが終わってしまう前なら、間に合う。

 運命の分かれ道は、目の前にある。

 

 思えばいつからか、選ぶことのすべてに、エドワードの姿が重なっていた。

 彼が好む花。彼が喜ぶ言葉。彼の隣にふさわしい、完璧な令嬢としての自分。

 

 そのために背伸びをし、磨き続け、ただただ、彼に振り向いてもらうことだけを願っていた。

 

 けれど──世界のすべてが彼で埋め尽くされていたはずの頃から、その周囲には、確かに存在していたのだ。

 自分を信じ、愛し、見守ってくれた人たちが。

 

 アリシアは、そっとまぶたを上げた。

 長い睫毛の影が揺れ、瞳の奥で迷いがひとつ、ほどけていくのがわかった。

 

 胸の奥で見つけた、小さな願い。

 それはまだ形にはならないけれど、確かに輪郭を持ち始めていた。

 

(──エドワード様との婚約を……断ろう)

 

 それは心の深い場所で、呼吸を始めた思いだった。

 

「……お父様に、お会いしないと」

 

 ──この人生を、私の手で選びなおしたい。

 

 

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