2-1.運命の別れ(上)
朝食を終えてなお、レイモンド家の食堂にはおだやかな空気が漂っていた。
厚みのある椅子に深く身を預けた父は、新聞を広げたまま動かず、母は静かに紅茶を口にしている。
アーサーは、小さな手でフォークを握りしめていた。
皿の上の林檎のコンポートをどうにか刺そうと懸命だが、つややかな果肉はそのたびにするりと逃げる。
「うー……つかまえられない……」
ふくれたように眉を寄せるその顔があまりに真剣で、アリシアはふっと口元をゆるめた。
その気配に気づいたのか、アーサーがぱっと顔を上げる。
「ねーしゃ! みて、がんばってるの!」
「ええ、えらいわ。とってもがんばってる」
声をかけると、アーサーは胸を張って得意げな顔をした。
けれどその次の瞬間、またしてもフォークは林檎を逃してしまう。
「少し、貸してくれる?」
「うんっ」
アリシアがそっと手を伸ばすと、アーサーは迷いなくフォークを渡した。
林檎を小さく切り、器用にフォークに刺して渡すと、アーサーの瞳がぱっと輝く。
「ねえしゃ、ありがとっ!」
あまりに嬉しそうな声に、新聞の向こうからオスカーがちらと目を上げた。
何かを問いただすでも咎めるでもなく、家族を見守るまなざしがそこにある。
紅茶の湯気の向こうで、レティシアも同じように、微笑を浮かべていた。
食後のひとときを、こんなふうに和やかに過ごすのは──おそらく、はじめてのことだった。
だがそれは、唐突に断ち切られた。
「そういえば、そろそろお茶会のドレスを決めなくてはね」
レティシアは、何気ない調子でそう言った。
紅茶のカップを、音を立てずソーサーへと戻す。優雅で、淀みのない仕草だった。
けれどアリシアの胸の奥では、きしりと小さな音が鳴った気がした。
「……お茶会、ですか」
凪いでいたはずの感情が、再びざわめく。
「ええ、あなたも楽しみにしていたでしょう? やはり青かしら……エドワード殿下の、お好きな色ですものね」
時が、かすかに揺れて止まった。
空気が、わずかに冷たくなるのを感じた。
──青。
それはかつて、アリシアが彼に捧げるために選び続けた色だった。
彼の瞳の色に似ていたから。彼の好きな花が、青だったから。
そして、自分の心もまた、その色で染め上げられていた。
(……ああ)
背筋に、ぞくりとした感覚が走る。氷の指でなぞられたような、冷たく鋭い衝撃。
目の前にあるおだやかな景色が、仄暗い底へと傾きかける。
(私が、いまいるのは──)
エドワードとの正式な婚約の、ほんの手前だ。
十三歳のとき、王宮主催のお茶会が開かれたあとに、お披露目がなされることになっていた。
まだ誰もが笑っていて、誰もが裏切られていなかった頃。
地獄の扉が開く、少し前の時間──その運命の分岐点に立たされていることを、アリシアは決定的に悟った。
喉の奥で、小さく息を呑む。
あの婚約が、自分の人生にどれほどの傷を残したか。どれほど信じ、尽くした末に、踏みにじられたか。
──それでも。
アリシアは、反射のように背筋を正し、口元に笑みを貼りつけた。
完璧な侯爵令嬢の顔を、寸分違わぬかたちで。
「はい、お母様のおっしゃる通りに」
その言葉は、あまりに自然に出てきた。
もはや染みついてしまった“よくできた娘”の言葉。
けれど、胸の奥では激しい問いが渦を巻いていた。
(──本当に、これでいいの?)
また同じようにすべてを差し出して、同じ結末へと進んでいくのか。
ただそうするものだからと、そうあるべき娘として、また一歩を踏み出すのか。
口をついて出たその一言が、過去と現在の境界をあいまいにしてゆく。
気付けばひとつの記憶が泡のように、浮かび上がってきた。
──王宮に招かれた、あの日のこと。
アリシアは、たぶん緊張していた。
しかし名門レイモンド家の娘として完璧であらねばならぬという思いが、背筋を確かに伸ばさせた。
父の教え、母が整えた髪、グレイスが着せてくれた淡いドレス──すべてを纏って、彼女は笑っていた。
記憶に残るのは、白く敷かれたテーブルクロスと、陽を受けてきらめく銀のポット。
焼き菓子の甘い香りが立ちのぼり、琥珀色の紅茶がカップの内側を静かに濡らしていた。
そして──ふと、誰かと目が合った気がする。それからアリシアはおそらく、微笑んだ。
社交の場で身につけた作法。それはもう癖のようなものだった。
けれど、その一瞬の記憶が、不思議と胸に残っている。
思い返すたびに浮かぶのは、あの瞳の色。
長い睫毛が落とす影、どこか固く結ばれた唇、強ばった肩──。
そこまで思い出して、はた、と気付く。
(──まさか)
ざわめきが這い上がり、体の奥にひやりとした感触を残す。
あれは、あの子だ。
婚約解消を申し出られたときにエドワードの傍らにいた少女──クラリッサ・メイベル。
対面したときには気が付かなかった。
けれど今になって、あの記憶の中にいる少女の輪郭と、クラリッサの面差しが、音もなく重なってゆく。
クラリッサの存在が、記憶をすり抜けて今の時間に忍び寄ってくる。
あの日、王宮の陽光の下で──あの少女の視線は、まっすぐにアリシアを見つめていた。
それがいまではどうしようもなく、不気味に思えた。
アリシアは、目の前にあるカップをそっと見下ろす。
紅茶の表面に、青ざめた自分の顔が映っていた。
そのとき、ふいに袖口にやわらかな感触が触れた。
「ねーしゃ、さむいの?」
小さな声だった。
アーサーが心配そうに、姉の横顔を見上げている。幼い瞳が、姉の内にある冷えを、どこかで察してしまったかのようだった。
アリシアは、はっとして微笑んだ。
「ううん……ちがうのよ。ありがとう、アーサー」
アーサーの手が、そっと彼女の指先に重なる。
やわらかくて、あたたかい。そのぬくもりが、心に染み入る。
けれど、それでもなお──消えないものがあった。
再び刻まれようとしている運命の足音が──怖い。どうしようもなく、おそろしい。
アリシアは、紅茶の冷めゆく香りのなかで、静かに目を伏せた。
その胸の奥に浮かびあがる問いは、かすかな熱とともに、彼女の内に沈んでゆく。
──確かに、自分は命を絶ったはずだった。
それなのに幼い体で目覚めて、この屋敷のベッドの中にいた。
まるで何もかもが巻き戻されたように、世界が姿を変えていた。
自分が座るこの食卓も、差し込む朝の光も、あまりに確かな気配をもっている。
いま在るこの場所は、果たして夢なのだろうか。
それとも、確かに与えられた現実なのか。
神が慈悲を与えたのか。
あるいは、より深い苦しみへと導くための、試練なのか。
もし、このまま何ひとつ変えずに過ごしてしまえば──きっと、運命はまた同じ終わりへと彼女を連れていく。
彼に見限られ、心を喪い、破滅の淵に辿り着く。
それでも。彼を想う気持ちは、未だ心のどこかに棲みついていた。
愛していた──だからこそあの現実に耐えられず、終わりを自ら選んだのだ。
──もし、やり直せるのだとしたら。もし、違う選択ができたのなら。
ほんの少しでも、違う言葉を、違う歩幅を選べたなら。
今度こそ、彼の隣に立ち続けることができるだろうか。
けれど──もしまた、同じように裏切られたら。もし、今度も届かなかったら。
その痛みに、やはり耐えられない気がした。
そして、そんなふうに壊れてしまったとき。
残される家族が、どれほど傷つくかを思ってしまう自分がいた。
アーサーの笑顔。母の腕の中。父のまなざし。
かつては気づかなかった、日々のささやかな幸せが、ここにはある。
自分の不在は、このやさしい家族を悲しませてしまうのかもしれない。それは、アリシアが今まで抱いたことのなかった感情だった。
──私は、どうするべきなのだろうか。