1-3.目覚めた少女(下)
廊下に出ると、レイモンド邸の香りが懐かしく鼻腔をくすぐった。
磨かれたばかりの床は艶やかに光り、陽射しが差し込んだ額縁の金彩がきらきらと揺れている。
朝の光に包まれた屋敷は、まるで何事もなかったかのように、おだやかな呼吸をしていた。
アリシアは食堂の前で一度足を止める。心の奥に、小さな棘のような緊張が引っかかっていた。
そっと息を整えてから、アリシアは食堂の扉をくぐる。
父──オスカー・レイモンドの姿が、そこにはあった。
「失礼いたします……」
オスカーは娘の姿を見るとゆっくりと立ち上がり、目を細めた。
それは何かを咎めるでも、探るでもなく──ただ、無事を確認した親のまなざしだった。
「おはよう、アリシア」
静かな、しかし確かにあたたかさを含んだ声。
前の人生では、一言交わすだけでも冷たい圧を感じていた相手のはずなのに。
(怒られない……)
その事実が、心を不意に揺らす。
レイモンド家の食卓は、いつだって静かで、礼節に満ちていた。
かつてのアリシアは、父の前では感情を見せぬよう努め、ただ無言で食事をとるだけだった。
話題を振ることも許されぬと会話に加わることもなく、オスカーの声を聞いているだけで、必要なことだけを答えていた。
規律を破れば、すぐに失望されてしまう。そう思い込んでいた。
「おはよう……ございます、お父様……」
それなのにいまは何も言われなかった。彼の所作には、怒気も詰問の気配もなかった。
「今朝は何かあったのか」
「いえ、少し……眠りが、深かっただけです」
「そうか」
短い言葉だが、その口元はほっとしたように笑んでいた。
ただ自分のことを案じていて、何事もなかったことに安堵している──そう思えた。父の瞳の奥に、確かにそれを感じることができた。
アリシアは改めて挨拶をするかのように、深く一礼をする。そうしないと、またしても潤んだ瞳を父に気付かれてしまうと思った。
それは涙ぐんだことを叱責されるのではというおそれではなく、再び心配をかけてしまうかもしれないと、自然に思うことができた。
心の奥が、ひどく痛んだ。知らなかった。こんなやさしい顔をする人だったなんて、今まで一度も気付けなかった。
この人のまなざしを、自分はただの評価としてしか見てこなかったのだ。そんな己の狭さを、彼女は恥じていた。
父がそっと声をかけてくる。
「さあ、座りなさい」
そう促され、アリシアはようやく席へと歩を進める。
胸の奥からあふれてくる感情に体が追いつかず、少しだけふらついた。
そのままアリシアは使用人が引いてくれた椅子に腰掛ける。
けれど、ふと──テーブルの端に並べられた食器に、視線がとまる。
(……食事が、まだ始まっていない?)
朝食は、すでに定刻を過ぎている。
父が座っていて、席に着いているというのに、銀の蓋は閉じられたまま。給仕たちは待機したまま、ひとりも動こうとしない。
食卓に並ぶものはすべて、始まりを保ったまま、静かに時間を止めている。
その光景に、アリシアはわずかに戸惑った。
そして母が座っているはずの席もまた、空いていることに気が付く。
レティシアは、確かに先に部屋を出たはずだった。
きちんと整ったテーブル。座っているのは父ひとり。
それは、どこか不穏というよりは、奇妙な静けさをまとっていて──その理由が、扉の向こうから聞こえてきた足音によって明らかになるのは、ほんの数瞬後のことだった。
柔らかな布音と、子どものくぐもった声が、開け放たれた扉の向こうから聞こえてきた。
「遅くなってしまってごめんなさいね」
やわらかな声とともに現れたのは、母レティシアだった。
そしてその腕にすっぽりと抱かれている存在に、アリシアは目を見張った。
「……アーサー……?」
金の髪が、母の肩口にふわりと揺れる。レースの襟のついた朝服に、ぽてんと包まれた腕と脚。そこにいたのはアリシアの弟──アーサーだった。
眠たげな顔でこちらを見ていた幼子は、姉の姿を見た瞬間、ぱちりと瞳を見開く。
「ねえしゃ!」
ぱあっと笑みが広がる。くしゃりとほころんだ頬、差し伸べられた小さな手。
その無邪気な仕草に、アリシアの胸が不意にきゅっと鳴った。
「朝の騒ぎを聞いたみたいでね。あなたの部屋から戻る途中で、泣いているのを見つけてしまって」
朝の食卓にアーサーが顔を見せることは、まだあまりない。彼は普段、ナーサリールームで朝食を摂っている。
しかしまだおそらく二歳頃とはいえ、幼い心は大人たちの動揺を敏感に感じ取ったのだろう。今は機嫌がよさそうににこにこと笑っているが、その目元は赤くなってしまっていた。
「だから今日は、みんなで朝食にしましょうって……ね?」
「うんっ」
レティシアがアーサーを下ろすと、彼はアリシアのそばにちょこちょこと歩いてくる。そのまま隣の椅子によじ登ろうとするのを見て、後ろに控えていた年配の女性──彼の専属ナニーがすぐに駆け寄った。
「坊ちゃま、こちらでございますよ」
彼女は慣れた手つきで小ぶりな子供用の椅子を持ち出し、アリシアの隣に据え付ける。
背もたれにクッションが縫いつけられた、木製の温かみある造り。幼い身体にも負担のないよう配慮されたそれは、アーサーのための特別製だった。
嬉しそうに笑って、アーサーがその椅子にちょこんと座る。ナニーはその背を支え、姿勢を整えてやると、ふっと優しい微笑みを浮かべた。
「ねーしゃまもいっしょ?」
「ええ、一緒よ。……おいしく、いただきましょうね」
そう返したアリシアの声は、自分でもわかるほどやわらかかった。
その様子を見ていたオスカーが、静かに口を開く。
「……揃ったな」
──待ってくれていたのだ、と、その言葉で確信を得る。
アリシアのために、家族は食事を始めずにいたのだ。
この光景が、こんなにも自然に、あたたかく胸に沁みる。
心がじんわりとほどけていくのを感じた。
アリシアは、自分でも気づかないうちに、再び涙を堪えていた。
(私、こんなこと……知らなかった)
家族とともに囲む朝の食卓。
父の声も、母の仕草も、弟の笑顔も──すべてが、今の彼女を包み込む。
この世界は最初から、こんなにもやさしかった。
──私はいま、きっと。ようやく、目を覚ましたのだ。