17-3.踏み出せない一歩(下)
本日2回目の投稿です。
荷を運び終えた瞬間、アリシアがすっと横に立った。
「では、こちらへどうぞ」
細い指先が、ラルフの袖口をとらえる。拒もうと思えばできたはずなのに、それは不思議と彼の腕を縫い止め、振り払うという選択を奪っていた。
厨房を抜けると、庭園の奥に通じる小径がひっそりと開けていた。
白い石畳を踏みしめて進む先、木漏れ日を透かす枝々の下に、小さなテーブルセットが用意されている。
日の光はやわらかく降り注ぎ、風が花びらをひとひら運んでテーブルに落とした。
すでに置かれているポットからは、ほのかに湯気が立ちのぼっていた。
「今日、新しいお茶を試そうと思っていたんです」
アリシアはそう言いながら、迷いもなく椅子を引いた。
まさか──と思った瞬間、視線が絡む。
促されている。そこに座ってほしいと。
侯爵家の令嬢が、自分のような商人のために椅子を引くなど、本来あってはならない光景。
それでも、期待を宿した瞳を前にして、どうして逆らえるだろう。
「……ありがとうございます」
絞り出すように礼を述べて腰を下ろす。
アリシアは嬉しげに微笑み、向かいの椅子へすっと腰掛けた。
次は必ずこちらが先に椅子を引こう──などと、当然のように次があることを考えてしまった己を戒めるようにかぶりを振る。
そうこうしているうちに、アリシアがポットを手に取った。
淡い琥珀色の液体がカップに満ちる。立ちのぼる香りは、柑橘の爽やかさに白い花を混ぜたようで、光の粒子をそのまま溶かしたかのようだった。
「この茶葉、先日ラルフさんに教えていただいたお店で買ったの」
「ああ……あそこの。お気に召したのなら、何よりです」
「ええ、とても気に入っているわ。あなたのおかげで、また好きなものがひとつ増えました」
彼女は花が開くように、嬉しそうに目を細める。
その笑顔を真正面から見ていると、胸の奥が落ち着かなくなる。
(……こんなふうに距離を詰められれば、誰だって——)
思考を振り払うように、ラルフはカップに口をつけた。
やわらかく舌に広がる味わい、のどを過ぎた後に残るわずかな苦みが、むしろ熱を鎮めるどころか逆に揺さぶる。
「ねえ、今度はこのお茶に合うお菓子も一緒にお願いできるかしら?」
「承知しました。いくつか合いそうなものを見繕ってみます」
「それで……もし、見つかったら」
カップを両手で包みながら、アリシアは視線だけをまっすぐに向けた。
「そのときも、少しだけ時間をもらえる?」
返事を急かしているわけではないのに、抗いがたい強さがある。
湯気がゆらめくカップを置いた瞬間、ラルフは思わず口を開いた。
「……お嬢様。先日……お伝えしたことを、覚えていらっしゃいますか」
アリシアは首をかしげ、「もちろん」と即答した。
「では……なぜ、その……」
言葉を探しあぐね、視線が揺れる。
「なぜ、そんなに……変わらずに、接してくださるのですか。僕は……」
答えられないと、はっきり告げたはずだった。
それなのに、彼女はこうして笑顔で向き合ってくる。
アリシアはふっと目を細めた。
「あなたなら、絶対に断ると思っていましたから」
「……え?」
「そういうところが、好きなんです」
一拍の沈黙。
言葉の意味は確かに聞こえたはずなのに、脳が理解を拒む。
「ラルフさんはきっと、そう簡単に心を傾けたりしない。立場や責任を理由に、自分を律する人でしょう?」
やわい声音に込められた確信は、否定する隙を与えない。
ラルフは言葉を失ったまま、ただカップの取っ手を握りしめていた。
「……お嬢様……」
ようやく呼びかけたものの、その先は言葉にならなかった。
そんなラルフの動揺を楽しむかのように、アリシアは身を少し乗り出す。
「でも、“変わらずに”なんて心外です」
「……?」
「私、今あなたにアピールしてるのよ」
さらりと、臆面もなく言い切る。
その言葉は、不意打ちのように胸に直撃した。
「……っ」
ラルフは思わず背筋を正し、視線を逸らした。耳の先が熱い。
「お嬢様……そういうことは……」
「何?」
「……軽々しく仰るべきでは……」
「軽々しくなんて言ってないわ。本気よ」
揺るぎない声音に、言葉が詰まる。
この押しの強さと正面からの視線に、抗うだけの理屈が出てこない。
ラルフはその場に固まった。
耳の奥までじんじんと熱が広がっていく。
「……お嬢様、それは……困ります」
「何が?」
「……いや、その……」
まともに視線を返せない。
テーブルの縁に手をかける指先まで、妙に力が入っていた。
「と、とにかく……これ以上は……」
言い淀みながら、ラルフは椅子を引き、立ち上がった。
逃げ出すような足取りで厨房のほうへ向かおうとする。
「ふふ……」
背を向けたその瞬間、背中越しに笑い声が降ってきた。
「そんなふうに慌てるあなたも、好きです」
ぴたりと足が止まる。
振り返ることもできず、ラルフはただ深く息を吐き出した。
*
侯爵家を出ると、夜の気配が街を覆い始めていた。
自分がお嬢様に心を寄せているのだということは、もはや逃れようのない事実だ。
だが、その一歩を踏み出せば、何が待つのか。
それを思うと、どうしても足が止まってしまう。
けれどいくら夜風が頬を撫でても、やはり胸の熱は冷めぬままだった。




