17-1.踏み出せない一歩(上)
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あれから、数日の時が流れた。
にもかかわらず、あの声がまだ耳朶に残っている。
夕暮れの庭先、確かにお嬢様は言ったのだ──「好きです」と。
冗談で言われたわけではないことはわかっている。あの言葉には一片の曖昧さもなく、逃げ場を与えないほど真摯な熱があった。
胸の奥が、不意に熱を持つ。だが同時に、冷たい理性が働いた。
彼女は侯爵家の令嬢であり、自分はただの商人にすぎない。
出入りの職務を仰せつかっているにすぎず、私的な情を交わすなど、許されぬ立場だ。
だというのに。
彼女とはじめて出会った日──父に連れられて侯爵家を訪れた秋のことを、思い返す。
『はじめまして、お嬢様。ラルフ・ウォードと申します』
『……はじめまして。アリシア・レイモンドです』
この場に呼ばれたことについて驚いている様子を見せたのに、すぐに落ち着いて挨拶を返された。
まだ十三歳でありながら、まっすぐに伸びた背筋、細やかな指先の動きに漂う気品は、幼さを遠く離れていた。
挨拶を交わしただけで、次に言葉を交わす日はないだろうと思っていた。
だが、思いがけずアーサー様が自分を気に入ってくださったことから、何度も侯爵家に足を運ぶうち、自然と彼女とも言葉を交わすようになった。
そして、あの冬の日──。
雪が急に降り出し、帰る術を失って泊まらせていただいた夜。
廊下の窓辺にひとり佇むお嬢様を見た。
降りしきる雪が、外界とこの世を隔てていた。白の帳に沈むその姿は、今にも溶けて消えてしまう幻影のよう。
月明かりを受けた横顔は、氷に封じられた花のように冷ややかで、儚かった。
その瞳は、遠い場所──この世のものではない、遥かに隔たった夢の国を見ているようで。
息を呑む音すら、この静寂を乱してしまいそうだった。
声をかけるべきではないと思いながらも、どうしても言葉が零れた。
『……あの、お嬢様──』
何かお辛いことでもありましたか。
その問いかけは、形を成すことはなかったけれど。
この人にこんな顔をさせてしまいたくないと、思った。
触れることは許されぬ光景だとわかっていたのに、手を伸ばさずにはいられなかった。
思えば、それがはじまりだったのだろう。
それから季節が巡る中で、何度も言葉を交わした。
デビュタントの贈り物のために糸を探してほしいと頼まれたとき。
商人としての信頼を寄せられていると知り、嬉しくなった。
糸が仕上がったときに見せた彼女の笑顔は、単なる職務の成果を超えた何かを胸に残した。
ただ信頼に応えられたというだけではなかった。
心の奥で芽生えかけていた感情に、必死に目を逸らした。
気づけば気づくほど、引き返せないとわかっていたからだ。
──あの日までは。
『その姿を……あなたに、見てほしかった』
デビュタントを振り返りながら、彼女が告げた言葉。
心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。
その瞬間、自分の気持ちをこれ以上ごまかせないと悟った。
もし本当に、その姿を自分が隣で見られていたなら。
影から覗くのではなく、彼女の手を取ってともに歩んでいたなら──。
叶わぬはずの夢想が、胸を熱で満たしてしまった。
とはいっても、その後も大きな変化が訪れることなく、日々は流れていった。
しかし秋の収穫祭シーズン、レイモンド家の領地を訪れたときのこと──。
屋敷では決して見せることのなかった自分の姿を、彼女に知られてしまった。
馴染みの仲間たちと肩を並べ気兼ねなく話す姿だとか、幼い頃から世話になっている店の者に過去を暴露されつい顔を赤くしてしまった姿だとか。
それをお嬢様は、ただ楽しげに目を細めて見ていた。
やがて収穫祭の準備を手伝ううち、街の人々に慕われるお嬢様の姿を目にした。
朗らかに笑いかけ、誰に対しても言葉を惜しまない。
きっとお嬢様は、どんな相手にも心を尽くすことのできる人なのだ。
『……私は、知りたいの。あなたがどんな日々を過ごして、何を大切にしているのか……そういうのを、少しずつでもいいから』
だからそんなふうに言ってもらえたのだとしても、自分が特別なわけではない──と言い聞かせながら。つい、彼女へ贈り物をしてしまった。
皆へ平等に優しいのならば、この心がほんの少し滲んでしまったのだとしても見逃してもらえると思ったから。
線を引こうとした。距離を置こうとした。
それでも──できなかった。あの冬の夜のように、手を伸ばしてしまった。
『……駄目でしょうか? ……祭りの夜の、ひとりの娘として、ただ、あなたと踊りたいと思ったのです』
そう告げられたとき、彼女のすべてが鮮烈に胸に焼きついた。
彼女は、きれいな人だった。
波打つ金の髪も、春を象ったかのような淡紅の瞳も、白い指先も。
けれども彼女の美しさは、形だけのものではなかった。気高さ。純真さ。人を思いやるやわらかな心。
目に見えぬものが、ひとつひとつ透けて、彼女の輪郭を光で縁どっていた。
それに、触れてしまった。
篝火に照らされた夜。
髪を飾る珊瑚の花がゆらぎ、頬を染める笑みが浮かぶ。
彼女の瞳には、もうあの冬の冷たさはなかった。
代わりに宿ったのは、自分などに向けられるはずのない光。
だがそれを、確かに受けてしまったのだ。
*
「……おいラルフ、聞いてる?」
羽根ペンを持ったまま手を止めていたラルフは、声に呼び戻された。
机の上には、荷目録と請求書が山のように積まれている。それは日常の風景のはずなのに、目の奥にちらつくのは──夕暮れに告げられた、あの声だった。
「ああ、えっと、ごめん」
「侯爵家への荷の確認だぞ。間違えたら信用に関わるんだからな」
「わかってる……」
わかってはいる。だが数字の列よりも、彼女の声の残響のほうが鮮やかに迫ってくる。
──私、ラルフさんのことが……好きです!
まっすぐで、逃げ場のない声。
たとえ夢であってもよかったはずなのに、その言葉は確かに自分の名を呼び、現実に刻みつけていった。
「なんだか上の空ですね、ラルフさん」
帳簿をまとめていた若い事務員が、にやりと笑った。
「まさか……お嬢様と何かありました?」
「違うよ」
食い気味の即答。あまりに早い否定が、かえって怪しまれる。
机の周りにいた数人の同僚たちが、顔を見合わせた。
「……図星?」
「まあでも確かに、ほら、収穫祭のときさ……」
「だから、違うって……」
そう返して目録に視線を落とす。だが、胸の奥で彼女の声がよみがえる。
あの瞬間の心臓の跳ね方は、どうにも忘れられない。
しかしどうにか無理やりに、数字へと意識を引き戻す。だが指先は、紙の端を強く押しすぎて白地を歪ませてしまう。
侯爵家の令嬢から告白を受けたなど、軽々しく口にできることではない。
それは、立場も身分も違う自分にとって、あまりにも重い出来事だった。
やがて視線を振り切って、荷の搬出を確認するために外に出る。そこには今日の積み荷を載せた馬車が並び、仲間たちが縄を締めていた。
ラルフも手を貸しながら、無意識に空を見上げ──雲間から零れる淡い光が、どうしようもなくアリシアを思い出させた。




