16-3.遠い日の足音(下)
ウワーッ 更新遅くなりました
「ラルフさん!」
呼びかける声は、ひどく震えていた。
足を止めたラルフが、ゆっくりと振り返る。夕暮れの光が、彼を淡く照らしていた。
「お嬢様……? 何かご用でしょうか」
不思議そうにしながらも、おだやかに笑いかけてくれる。
彼の瞳は、宝石のように輝いていた。
アリシアは息を切らしながら、彼の目の前までたどり着いた。
「あの……ラルフさん」
どう言葉を紡げばいいのか、わからなかった。胸がいっぱいで、上手く呼吸もできない。
しかし、今伝えなければ、きっと後悔する。そう、強く思った。
「私、ずっと……ずっと前から、あなたに伝えたいことがあったんです」
言葉を選びながらも、感情が溢れ出すのをやめられない。
心が、ずっと待っていた。ようやく口にできる、枷がなくなる、この瞬間を。
「……急にごめんなさい。変ですよね、私……」
けれど自分だけが気持ちを募らせて、唐突に呼び止めてしまったことにようやく気づく。
それでも止めることはできなかった。
「でも、どうしても今じゃなきゃ言えない気がして。私、今日に何かおそろしいことが起きるのではないかという予感があったんです」
一息で言ったあと、アリシアはラルフの目を見る。
「けれど、今日はなんでもない一日でした。私の大切なものは、ずっと前から……そばにあって、なくなったりはしないと、思えたんです」
それは、より強まった確信だった。
時を越えて、悲しみに塗れた過去を抜けて、ようやくたどり着いたこの場所。
「あなたが、来てくれたから。……今日、あなたがここに来てくれたから、私は……」
アリシアは、ぐっと唇を噛み締めた。ラルフの瞳が、わずかに揺れる。
そして、彼の黄の瞳をまっすぐに見つめ、一歩、彼に近づいた。
「私、ラルフさんのことが……好きです!」
夕暮れの静寂の中に、アリシアの告白が、はっきりと響き渡った。
ラルフの目が、大きく見開かれる。
その瞬間、彼の耳の先までが熱を帯びるように赤く染まり──次にはまるで血の気が引いたかのように、蒼白くなる。
言葉を失ったまま、彼はただ、アリシアをまっすぐに見つめ返していた。
世界から音が消えたようだった。
風のざわめきも、遠くの馬車の蹄音も、すべてが遠のいて、彼女と彼だけの時間が静かに降り立った。
やがて、ラルフは視線を落とし、深く、静かに息を吐く。
その仕草には、波立つ心を懸命に鎮めようとする意志が滲んでいた。
「……お嬢様」
絞るような声だった。
震えを孕みながらも、どこまでも丁寧で、礼節の境界を決して踏み越えぬ声。
「そのお気持ちは、……大変、光栄に思います」
言葉は震えていた。けれどその音色には、誠実さという名の壁が、静かにそびえていた。
「ですが、僕は……一介の商人に過ぎません。お嬢様とは……身分が違いすぎます」
ラルフは、一歩、後ろへと下がった。
それはまるで、アリシアの想いから距離を取るための一歩のようであり、彼自身を守る一歩のようでもあった。
「お嬢様のお気持ちに応えることは、できません」
彼の声は硬く、迷いを断ち切るかのようにはっきりと告げられる。
彼は、もう一度深く頭を下げる。
その表情は、傾き始めた夜の帳に溶けて、もう見えなかった。
「……では、これで。失礼します、お嬢様」
ただそれだけを残して、ラルフは踵を返す。
足早に、もう振り向くこともなく、門の方へと吸い込まれるように遠ざかっていった。
彼の背中が完全に視界から消え去るまで、アリシアは動けなかった。
「やっぱり……」
胸にすとんと落ちたのは不思議なほどおだやかな、納得感だった。
(ラルフさんなら、そう言うと思ったわ……)
かすかな熱が、頬に残っていた。
失望はなかった。むしろ、彼の揺るぎない姿勢に、改めて胸を打たれた。
(私は、あの人のそういうところが好き……)
冷えていく空気の中、アリシアはゆっくりと息を吸い込んだ。
彼の言葉は、彼女の想いを拒絶したのではなく、彼自身の信念を示したのだ。
だからそれは、とても尊いものに思えた。
アリシアは、そっと自分の胸に手を当てた。そこには希望の種が芽吹き、根付いている。
「……いつか、この壁を乗り越えてみせるわ」
その決意は輝く一番星のように、彼女の心に刻まれた。
アリシアは軽やかな足取りで部屋へと戻る。
窓の外には、星が瞬く夜が広がり始めていた。
*
寝支度を整えながら、彼女の心は先ほどのラルフとの出来事を反芻していた。
拒絶されたはずなのに、心が満たされている。
新しい自分になったからこそ、理解できた彼の誠実さ。そして、それを乗り越えたいと願う、前向きな衝動があった。
そのとき。コンコン、と小さななノックの音がした。
「姉さま、いる?」
幼い、けれどはっきりとした声。弟のアーサーだった。
「ええ、アーサー。入っていいわよ」
扉が開き、小さなアーサーが顔を覗かせた。彼の瞳は、夜空の星のようにきらきらと輝いている。
アーサーは、まっすぐにアリシアのもとへ駆け寄ってきた。そして、アリシアの顔をじっと見上げる。
「姉さま、もうだいじょうぶ?」
アーサーは、アリシアの裾をぎゅっと掴んだ。その瞳は、彼女の微かな表情の変化を敏感に捉えていたらしい。
以前はアリシアは今ほどわかりやすく感情を出すこともなかったから、この子がアリシアを心配して訪ねてくることもなかった。
「ええ、大丈夫よ。あなたはやさしい子ね」
アリシアは、アーサーの頭を優しく撫でた。
そういえばこの日、弟が寝付けなかったことを思い出す。上手く伝えられなかっただけで、アリシアが無理をしていることにはあの頃にも気付いていたのかもしれなかった。
「あのねえ、姉さま……今日、一緒に寝てほしいの」
「もちろんよ、アーサー」
アリシアは、その小さな手をそっと握り返した。アーサーの手は、あたたかくて柔らかい。
「やったー! じゃあ、姉さまっ、何かお話して!」
「……そうね。じゃあ、どんなお話にしようかしら……」
彼女の胸には、もう悲しみのかけらもなく、ただただ確かな幸福感が満ちている。
迫り来る不安の足音は、もう聞こえなかった。




