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1-2.目覚めた少女(中)

 

 

 アリシアはまだ机の前に佇んでいた。鏡を前に、涙の痕だけが乾かぬまま、夢とも現ともつかぬ世界に、ぽつりと取り残されているように。

 

 ──そのとき、軽やかなノックの音がした。

 

 応える気力は、まだなかった。

 

「失礼いたしまーす!」

 

 場違いなほど明るい声が響いて、まだあどけなさの残る年若いメイドたちが顔をのぞかせる。

 どうやらすでにアリシアが朝の食事に向かったと思い込み、清掃に訪れたらしかった。

 

「えっ……お嬢、さま……?」

 

 思わず洩れた小さな声。

 涙を流すアリシアを見つけるやいなや、メイドは慌てて駆け寄った。

 

「お嬢様!? どうなさったんです!?」

「どこかお怪我ですか、お熱ですか、それとも──」

 

 口々に飛び出す問いかけは、半ば叫びのようだった。

 アリシアはただ、ゆるく首を横に振るばかりで、言葉が出てこなかった。

 

「なにか……なにかありましたか!?」

 

 焦ったように動き回るメイドの声が、屋敷の静けさを乱す。

 それほどまでに、ありえないことだった。

 家の中ですら決して隙を見せることのなかったアリシアが、朝食の時間に遅れるなど──そして、こんなふうに泣いているなど。

 

 アリシアがなおも何も答えられずにいると、遠くから早足の気配が廊下を駆ける。

 

「アリシアに何かあったの!?」

 

 扉が勢いよく開かれた。

 入ってきたのは、母──レティシア・レイモンド。

 いつも完璧に整えられた髪が乱れ、息を切らしていた。その姿だけで、どれほど急いできたかがわかる。

 

「……アリシア……」

 

 その目が娘の姿を捉えた瞬間、レティシアは息を呑んだ。

 ひととき、凝固したように立ち尽くす。

 そして次の瞬間、堰を切ったようにアリシアへと駆け寄り、強く抱きしめた。

 

「ああ、アリシア……! 私のいとしい子。どうしたの、怖い夢でも見てしまったの……?」

 

 それはまるで、すべてを許すような抱擁だった。

 問いかけには驚きと心配がにじんでいたが、その手のひらはそっと娘の背を撫でた。

 

 慈しまれる温もりが、アリシアの胸の奥に沁み込み広がっていく。

 

 どれほど、この腕の中が安心するものだったのか。

 それを長らく忘れてしまっていた。

 

 第一王子の婚約者として、誰よりも優雅で気高くあらねばならないと、幼いながらに決めていた。

 誰の前でも取り乱さず、感情を封じてきた。

 そうして作られた“アリシア・レイモンド”という像を、彼女自身が壊せなかった。

 

 ──それなのに。

 

「……あたたかい……」

 

 ついにぽつりとこぼれた声は、自分のものとは思えなかった。

 それほどまでに、感情はすり切れていた。

 慈しみが痛かった。けれど、その痛みに身を任せてしまいたかった。

 

 アリシアは母の胸に顔を埋めた状態でそれ以上何も言えないまま、今までにない安堵を覚えていた。

 

 

 今度は先ほどとは違う、控えめなノックの音が響いた。

 

「お嬢様。グレイスでございます」

 

 落ち着いた、よく澄んだ声だった。

 それを聞いてアリシアは母の腕からそっと身を離すと、小さく息を吸って答えた。

 

「……入って」

 

 静かに扉が開かれる。そこに立っていたのは、淡い青灰の制服を纏った女性。

 レイモンド家に長く仕えるアリシア専属の侍女であるグレイスだった。

 その姿は、若いメイドたちのような初々しさではなく、訓練された静謐を湛えていた。

 

 彼女が背筋を伸ばして一歩室内へと入ると、残っていたメイドたちはグレイスの視線に気づいて一斉に身を引いた。

 戸惑い、名残惜しそうにアリシアを振り返りながらも、グレイスの無言の合図を受け取り、黙って退出していく。

 

「アリシア……? もう、大丈夫なの?」

 

 母の声が、やさしくかかる。

 アリシアは目を伏せたまま、わずかに笑みをつくった。

 

「はい……心配をおかけして、申し訳ありません。お母様、もう……先に戻られてください」

 

 言葉はまだ少し喉に引っかかるような硬さを含んでいたが、気丈に整えられていた。

 なおもレティシアはその場を離れかねていたが、やがてアリシアの促しに応じ、扉の前で振り返る。

 

「……ゆっくり来るのよ。食堂で待っているから」

 

 そう言い残し、扉の向こうへと姿を消した。

 アリシアは、しばしその閉じた扉を見つめていた。

 

 

 静寂が、しんと部屋を満たした。

 

「お食事の時間を、少し過ぎておりますが……ご準備を整えましょう」

 

 淡々としたグレイスの声には、感情の起伏はなかった。

 けれどその調子は、咎めるでも叱るでもなく──静かに寄り添う気配を含んでいた。


 アリシアは頷く。泣き腫らした瞳のまわりは、もう乾きはじめていた。

 

「……お願い」

 

 それを受けて、グレイスは深く一礼すると、無駄のない動きで支度に取りかかった。

 部屋には布の擦れる音と櫛の音だけが流れていく。

 

 

 櫛が髪を梳き、整えられる。髪がほどける感触とともに、胸のざわめきが落ち着いていくようだった。

 

 鏡の中に映る自分に、アリシアは改めて目をとめる。

 頬にわずかに残る紅潮、目元ににじむ赤み。幼い顔。

 

(……いまの私は、いったい何歳なの……)

 

 十二か、十三か。

 少女という輪郭が、まだあどけなさを伴って肌にとどまっている。

 夢のように遠ざかっていた時代が、いま目の前に映っていた。

 

「……お父様に、怒られてしまうかしら」

 

 呟きは、誰に向けるでもなく落ちた。

 屋敷が揺れた騒ぎの気配は、きっと父の耳にも届いていることだろう。

 

 ──完璧であること。

 幼い頃から、それはアリシアのなかで変わらぬ規範だった。

 わずかな遅れや乱れも、許されてはならない。

 それなのにいまの自分は──あまりにも脆く、乱れて、不完全だ。

 

「お父上様が何を仰るかは、私にはわかりかねます。ただ──子どもの身を案じぬご両親など、おそらくおいでにはなりません」

 

 グレイスは手元は止めずに答える。

 その声音が、ふっと空気に紛れ込んでいった。

 

 髪をまとめる手つきに迷いはなく、距離は礼を保ちつつも、冷たくはない。

 その所作には使用人としての節度と、それを越えた慈しみの気配が宿っていた。

 

「お嬢様。本当にお辛いときは、ひとりで耐え抜かずともよいのですからね」

 

 きっとグレイスは、早朝のうちに自分が泣いていたことに気付いていたのかもしれない。

 声をかけずに外で待っていたのは、アリシアの矜持をよくよく知っていたからだろう。

 だから今──こうして落ち着きを取り戻した頃合いに、そっと言葉を添えてくれる。

 そう思えてしまうくらいには、グレイスと過ごした時間が長かったことを思い出した。

 

 レティシアの温もりも、メイドの明るさも、そしてこのグレイスの沈黙のやさしさも。

 どれもかつての人生では、見過ごしてきたものだったのかもしれなかった。

 

 

 

 

本当は今日の分で(下)の予定だったのですが、長くなってしまったので一旦切ります……。

 

 

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