15-1.指先がふれる瞬間(上)
「でさあ、ずっと気になってたんだけど……それ、どうしたの?」
声の調子は何気なかったが、ニーナの視線ははっきりとアリシアの手元に注がれていた。
「あ……うん。さっき、ラルフさんが……買ってくださったの」
アリシアは、そっと膝の上で包みを開く。
それは、桃色をした珊瑚の髪飾り。
ひとつひとつの花弁が、まるで本物のように重なりあい、可憐な息吹を宿している。
波に磨かれた珊瑚の質感が、少女の手のひらの上で、ほのかに光を返していた。
「……え、なにそれ、え、ちょ、なにそれ〜! めちゃくちゃ可愛いじゃん!」
ニーナはきらきらと目を輝かせてアリシアの肩をぽんと叩いた。
「ねえ、それ、つけてあげる。ダンス始まる前にさ、いちばんかわいくしとかなきゃ!」
「えっ……あ、でも、私、そんな──」
「ほらほら、動かない、動かない。せーのっ」
くすくす笑いながら、ニーナは手早くアリシアの髪に触れた。
指先は思いのほかやさしくて、ゆっくりと髪を撫で整える。すっと、飾りが差し込まれると、ほんの一瞬で少女の姿がふわりと華やいだ。
「──うん、よし。完璧!」
やがて、風に乗って音楽が聞こえてきた。
収穫祭の終わりを告げるような、軽やかで華やかなダンスの調べ。広場の中心では、灯りのまわりに人々が集まり始めているのが見えた。
「わ、始まったみたいだよ!」
ニーナが立ち上がり、ぱんっと手を叩く。
そのまま、アリシアの手を取ってぐいっと引っ張った。
「ほらっ、行こう!」
「う、うん……!」
誘われるまま、アリシアは輪のなかへと踏み込んでいく。
笑顔がこぼれて、ふたりでくるくると回るたびに、髪飾りがふわりと踊る。
風の音。篝火の揺らぎ。人々の笑い声。
そのどれもが、あたかたかく感じられるものだった。
やがて、音楽が変わる。
空気が一瞬、しんと澄んで──次の旋律が始まった。
それは、ペアダンスの曲。
手を取り合い、ステップを合わせ、ふたりきりの世界を作る舞踏の調べ。
「ねえ、アリシア」
「……?」
隣から、ふいに声が聞こえた。
アリシアが振り向くと、ニーナがにこっと笑って、そっと背を押すように囁いた。
「ラルフさんのこと、誘ってみたら?」
「えっ……私が?」
思いがけない言葉に、目をぱちぱちと瞬かせてしまう。
ニーナは、笑みを浮かべてうなずいた。
(私が……ラルフさんを?)
まさか、そんなこと。誘うなんて。自分から──。
けれど、思い返す。
ともに歩いた祭りの道。屋台で過ごしたひととき。贈られた髪飾り。
ふとしたときに見せる、あのやさしい笑顔。
何気ない仕草で、いつもこちらを気遣ってくれる姿。
(……誘っても、いいのかしら)
そう思った瞬間には、もう心が彼の背を探していた。
夜風に舞う音楽の調べは、どこか夢のように響いている。
周囲を見回してみると、ラルフの姿を見つけた。
少し離れて、彼は人混みを避けるように立っていた。
屋台の影に差し掛かるその姿は、どこか祭りの喧騒から取り残されたようで。
けれど、気を緩めたその横顔には、優しい灯がともっていた。
アリシアは、ひとつ小さく息を吸う。
そして、意を決して一歩を踏み出した。
「ラルフさん」
その名を呼んだ途端、彼はすぐにこちらを振り向いた。
驚いたように、目を見開く。
「……お嬢様?」
アリシアは、手のひらを軽く握りしめたまま、微笑もうとした。
けれど、唇の端は少しだけ震えてしまう。
それでも、まっすぐに視線を重ねた。
「よろしければ──わたしと、踊っていただけませんか?」
ほんの一拍、風の音すら止んだように感じられた。
ラルフは言葉を失い、息を呑む。
戸惑うように視線を彷徨わせ、それからわずかに首を横に振った。
「それは……お嬢様……」
その声は、どこか自分自身を咎めるようだった。
拒絶ではない。畏れ、ためらい、そして──敬意。
「恐れ多いと申しますか……」
声の奥にあるのは、礼節という名の壁。
けれどその壁の内側で、彼もまた揺らいでいる。
「……駄目でしょうか? ……祭りの夜の、ひとりの娘として、ただ、あなたと踊りたいと思ったのです」
それは、心からの言葉だった。
自らの道を選び、歩んだ先にこそあった、夢のような日々──今その中にあるのなら、願いを差し出すことも怖くはなかった。
ラルフはしばらく、何かを噛みしめるように目を伏せた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……はい。……では、僭越ながら」
彼の声は静かだったが、どこか震えていたようにも思えた。
ラルフが差し出してくれた手に、アリシアはそっと指先を触れさせた。まずはほんの一瞬、羽のように触れただけなのに、息が詰まる。
触れたのはそれだけなのに、心の奥まで火がついたように熱かった。
彼の顔をまともに見ていられなくなる。視線を下ろすふりをして、そっと息を吐いた。けれど、その息すら震えてしまいそうだった。
こんなにも、触れるということに──痛いほどの意味を感じたことがあっただろうか。
ふたりのあいだにある距離は、近いのに、遠い。遠いのに、どこまでも近い。
その不思議な距離を、ひとつの接点がやわらかく埋めてゆく。
アリシアはゆっくりと、意を決して、手のひらを重ねた。
そっと、ためらいがちに、けれど確かに。
手のひらが、手のひらに触れる。
その瞬間、すべてが伝わってしまう気がした。いままで言葉にできなかった思いも、心に隠してきた熱も、静かな祈りも。
そうして灯りの輪の中へと、ふたりの影が滑り込んでいった。
触れた温もりは、決して夢ではなかった。




