14-1.光の夢はいまだ醒めず(上)
そして、収穫祭の朝がやってきた。
いつもこの日は家族揃って広場へ向かっていた。
だが今日は、母レティシアがふとやわらかく微笑んで言った。
「アリシア、今日は……あなたひとりで、先に行ってみたらどうかしら?」
それは、娘の変化を見守ってきた母だからこその提案だった。
準備を手伝い、人々と親しく言葉を交わすようになった彼女を、母は誇らしく思っていたのだろう。
父もまた異を唱えることはなく、おだやかに頷いた。
そうしてアリシアは、少しの不安と、それ以上の期待を胸に抱きながら──ひとり、朝の街へと歩き出した。
今日はもともと、ニーナと連れ立って祭りをまわる予定だ。
もう何度も通った道のはずなのに、今日はどこか違って見えた。
家々の扉には花の飾り。
軒先には、豊かな実りの象徴である葡萄と麦の房が揺れている。
そして街の入り口には──昨日、みんなで仕上げたあの横断幕が、朝陽を浴びて高く掲げられていた。
見慣れたはずの光景が、今はまったく別物のように感じられる。
それはただの風景ではなく、自分の手が触れた世界だった。
(私……ここに、いるんだ)
見るだけの存在ではなく、関わり、手を動かし、時間を共にしたからこそ──世界が、鮮やかに、光を増して映る。
すれ違う人々が、誰からともなく声をかけてくれる。
「お嬢様、よく来てくれたねぇ」
「お元気そうで何よりだわ」
「横断幕、あれお嬢様たちが仕上げたんだろう?」
それらひとつひとつに、アリシアは丁寧に微笑み、言葉を返して歩いた。
はじめてこの街を訪れた頃には、こんなふうに話しかけられることはあまりなかった。
けれど今は、誰かからの声が自然に届く。
そしてその声を、心から嬉しく思える。
それは、ほんのささいな変化かもしれない。
けれど彼女にとっては、何よりもあたたかく、かけがえのない一歩だった。
「アリシア!」
にぎわう人波の向こうから、ニーナが手を大きく振って駆け寄ってきた。
「おはよう! 今日は思いっきり遊ぼうね!」
「ええ、おはよう。とても楽しみだわ」
ふたりは顔を見合わせて笑い合い、連れ立って屋台の並ぶ通りへと歩き出す。
焼き菓子の甘やかな匂い、こんがりと香る焼き林檎、秋野菜のスープから立ちのぼる湯気。
それらが朝の空気に溶けあい、秋の空の下、どこか懐かしい香りを漂わせている。
どの店にも、見慣れた人々の顔があった。
アリシアはひとりひとりに、丁寧に言葉を交わしていく。
名前を呼び、笑顔が返ってくる。
それがうれしくて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
そんななか、気づけばいつの間にか──小さな子どもたちに、手を引かれていた。
「ねえねえ、おじょーさまもやろうよ!」
「輪っか、あとちょっと残ってるの!」
そう言って引っぱられた先には、簡素な輪投げの台があった。
並べられた景品は素朴だけれど、どれも子どもたちの目を輝かせるには十分だ。
「そっちそっち! 左だってば、アリシア!」
「わ、私、こういうのは……っ! えいっ──」
緊張で手元がぶれ、輪は台の外へ転がってしまう。
子どもたちから「あ〜あ!」と笑われて、アリシアは思わず頬を染めた。
「もう〜っ、見ててよ! 今から私が本気出すから!」
そう言って、ニーナが代わりに輪を手に取る。
真剣な顔で狙いを定め──シュッ、と放った輪は、きれいに瓶の首に引っかかった。
「やったー!」
歓声とともに、さらにもうひとつ成功させたニーナは、景品のぬいぐるみをふたつ、得意げに手に取った。
「はい、こっちあげる!」
「えっ、いいの? これはニーナが取ったのに……」
「うん。だってさ、こういうのって、分け合った方がずっと楽しいじゃない?」
屈託なく笑うその顔に、アリシアは頬がゆるむのを感じていた。
(この子は、ほんとうに……)
まっすぐで、やさしくて、いつも周囲の光になってくれる。
こうして並んで歩くのは、もう何度目になるのだろう。
けれど今日は、どこか特別だった。
「去年は来られなかったから……こうして一緒に歩けるの、嬉しいわ」
アリシアが少し照れながら呟くと、ニーナはぱっと笑顔を弾けさせた。
「うん。私も!」
そのとき、焼き立てパンの屋台から、香ばしい香りがふたりの鼻先をくすぐる。
「うわ、いい匂い。ね、食べてこうよ!」
「そうね。そうしましょう」
買ったばかりのパンを手に、ふたりは肩を並べたまま、熱々を口に運ぶ。
表面はカリッと香ばしく、中はふんわりやわらか。
いつものアリシアなら、きっと姿勢や所作を気にしてしまうところだ。
けれど今は──笑い声とあたたかさに包まれながら、ただ心から美味しいと思えた。
そうして陽光の射す小径を、アリシアとニーナは笑いながら進んでいく。
「ほらほら、次はあっち! あそこの焼き菓子、アリシアぜったい好きだと思う!」
「ほんとう? ……ふふっ、楽しみだわ」
その笑顔は、きらめく秋空の下で、誰よりもまぶしく輝いていた。
そのとき、ふと視界の端に、見覚えのあるふたりの姿が映った。
ひとつの屋台の前で、肩を並べて談笑しているのは──ベルとユアンだった。
「……あ」
ベルが差し出した焼き菓子を、ユアンが少し照れたように受け取り、おそるおそる口に運ぶ。
ベルはその反応を待つように、目を輝かせて彼を見つめていて──ユアンも、それに応えるように、ほんのりと笑った。
その間にある空気は、気負いも飾り気もなかった。
ただ、当たり前のようにそこにある親しさ。
アリシアはほんの一瞬、足を止めてしまった。
(……なんだか、いいな)
胸の奥がきゅっと小さくなった気がして、けれどそれは悲しさではなかった。
遠くから見ているだけで、心が少しあたたまるような、けれどなぜか少しだけ、うらやましいような──そんな気持ちだった。
そして、その気持ちを、隣にいたニーナは見逃さなかった。
ちらりと横目を向けると、彼女はにやりと、いたずらっぽく口角を上げる。
「ねえ、ラルフさんって、今どこにいる?」
突然、近くの屋台のおじさんに声をかける。
「ああ、確かさっき、裏の坂道の方にいたと思うよ。荷物運びを手伝っててな」
「ありがとー!」
ぺこりと頭を下げたニーナは、返事を聞くや否や、アリシアの手をぐいっとつかんだ。
「……えっ? ちょ、ちょっと、ニーナ?」
「いこ!」
それだけ言い残し、彼女は問答無用でアリシアを引っ張って駆け出した。
人混みを器用にすり抜け、屋台のあいだを風のように進んでいく。
「ちょっ……ニーナ!? どこに行くつもりなの?」
「だーいじょうぶ! 絶対後悔しないからっ!」
振り返ったニーナの瞳は、何かを思いついたばかりの子どものように、きらきらと輝いていた。
*
「……ここ、だって!」
ニーナが足を止め、指さしたのは、裏通りへ続く細い坂道の先だった。
祭の喧騒から少し離れたその場所に──見覚えのある、まっすぐな背中があった。
ラルフだった。
どうやら作業を終えたところらしく、重そうな木箱を脇に下ろして、汗をぬぐっている。
先ほどまで駆けていた身体は、急に動かなくなってしまった。
胸の鼓動が早く、息が少しだけ上がっている。
頬がほてっているのは、走ったせいだけではない。
隣で、ニーナが小声で囁いた。
「じゃ、あとは──ごゆっくり〜!」
それだけ言うと、ぱっとアリシアの手を放し、彼女の背中を軽く押す。
アリシアが振り返るより早く、ニーナはひらりと身を翻し、踵を返して駆け出していった。
「……えっ、ニーナ……?」
呼び止めようとした声は、風にさらわれたように宙に消える。
祭のざわめきの向こうに、彼女の後ろ姿はすぐに見えなくなった。
この状況に、なんだか覚えがある。
「──お嬢様?」
ふいに、自分を呼ぶ声がした。
振り向いたラルフが、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
「あっ……その……」
どう言えばいいのかわからず、言葉が喉に引っかかる。
視線をどこにも定められず、気まずそうに揺れる睫。
ラルフは首を傾げながらやわらかく笑った。
「この辺りには何もありませんよ。……もしかして、道に迷われてしまいましたか?」
「いえ……ちがいます。あの、その……」
どこから話せばいいのか、言葉が見つからない。
けれど、いま立ち去るのは──もったいない、気がした。
「もし……よければ、その……少しだけ、お祭りを案内してもらえませんか?」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
ラルフは一瞬、驚いたように目を瞬かせる。
「えっ、僕ですか? でも、もっと他の方のほうが──」
「いえっ!」
反射的に声が出た。
驚いた自分の声に、アリシアはわずかに唇を噛む。
「ラルフさんに、お願いしたいんです」
真正面からそう告げると、ラルフは目を丸くし、それから少しだけ照れたように、微笑む。
「……それなら。はい、わかりました」
「っ、ありがとうございます……」
その返事を聞いた瞬間、胸の奥で何かが弾けたような気がして──アリシアはそっと、胸に手を置いた。
自分の声が、すこし浮き立っていたことにも、気づいていた。




