1-1.目覚めた少女(上)
深い闇が、どこまでも広がっていた。
底がない暗がりの中を、ゆるやかに沈んでいく。落ちてゆく感覚だけが、かすかに体を撫でていた。
その果てに、ふと──まぶたの裏に、淡く光が差した。
誰かが、遠くで名を呼んだ気がした。
──アリシア・レイモンドは、幸せになる。
その声が本当にあったのか、それともただ彼女自身の祈りが反響しただけだったのかはわからない。
ただひとつ、確かに“望まれた”ような気がした。誰にも奪われない幸福を、と。
意識は、ひとしずくの泡のように、そっと浮かび上がる。
目に映ったのは、見慣れた天蓋だった。
白く透けるレースが、朝の光を帯びて静かに揺れている。陽光が柔らかく差し込む気配と、遠くの鳥のさえずり。
けれど、心は安らがなかった。
あまりに穏やかで、あまりに美しく、あまりに生に満ちているこの空間が、ひどく気持ちをざわめかせる。
「あれ……私、死んだはずじゃ……?」
喉から漏れた声は、ひどくかすれて震えていた。
静かなはずの室内に、胸の鼓動が異物のように響いている。
脳裏に焼きついているのは、冷たい刃の感触と血の匂いだった。
再び目を閉じる。だが、そこに浮かぶのは、忘れようにも忘れられない終わりの記憶だ。
王太子エドワードとの婚約。彼を心から愛し、彼の幸福が自分の幸福だと信じて疑わなかった、かつての自分。
しかし、その愛は足蹴にされ、欺かれ、結局は自らの命を絶つほどの絶望を生んだ。
エドワードとの思い出の地──北の館の石床は凍るように冷たかった。
鋭利なナイフが喉元を裂いた夜。
名も知らぬ毒を飲むよりも、血に染まって息を絶った夜。
しかしあれほどまでに深く喉元へ突き刺さした痛みは、もうなかった。すべて幻だったかのように、消えていた。
それは確かに、命の終わりをもたらしたはずだったのに。
今、彼女は目を覚ましている。
やわらかな寝具の中で、かすかな体温に包まれながら。
「……嘘、でしょ……?」
震える指を持ち上げて顔を覆う。
吐息は確かに胸の内で響いていた。腕は重く、まぶたはじんわりと湿っていた。
確かに、死んだ。確かに、自らその終わりを選んだ。──それなのに、まだ、息がある。
今いるのは夢の中なのか、それとも天国か。はたまた地獄なのだろうか。
「ここは……いったい、どこ……なの……?」
アリシアは、小さく震えながら、自らの鼓動に耳を澄ませた。
それは、脈打つ心臓。それは、確かに生きている者の音だった。
ゆるゆると、身体を起こす。
改めて周囲を見回した。陽の角度も、壁紙の色も、見覚えのある天蓋の模様も、すべてがあの家のものだった。
ここは、レイモンド家の屋敷──間違いなく、自分の部屋だ。
喉元をそっと撫でてみる。何の傷もない。
(生きてる……本当に……?)
心が追いつかないまま、視線だけが部屋の隅々を彷徨う。
すべてが懐かしい日々の断片で、同時にもう戻れないと思っていたものたち。
だが、ここにある。あの終わりの先に、まだ続いている日常が。
そんなはずはないのに──いや、あってはならないのに。
何かに突き動かされるように、アリシアはベッドから身を起こした。
そっと足を下ろす。床の感触は冷たくはなく、ふらつきも痛みもない。
アリシアは、ひとつの引き出しを開けた。
そこにあったのは、銀の縁に花の意匠が施された小ぶりな手鏡だ。
鈍く光るそれは、昔からずっとアリシアの傍にあったものだった。
彼女は毎朝、この鏡の中で愛される微笑を練習した。
第一王子の婚約者として、エドワードのために。誰よりもふさわしくあるために。
(──あのとき、まだ私は……)
震えた指が鏡の縁をなぞり、やがて手に取った。
そこに映った自分と目が合った瞬間、涙がこぼれ落ちた。
鏡は何も語らない。ただ黙って、そこにあるものを映すだけ。
その中にいたのは、まだ幾分かあどけなさを残した少女──最後の記憶よりも幼い姿をした彼女自身だった。
「……どうして……」
言葉の先は喉の奥で詰まって、涙に埋もれた。
悲しいわけではない。ましてや、恐ろしいわけでもない。ただ胸の深くに潜んでいた何かが熱を帯びてこみあげ、涙というかたちで溢れてきた。
過ぎ去った自分を悼んでいるのかもしれない。
それとも、取り返しのつかない日々への祈りなのかもしれない。
どんな理由であるのか、はっきりとはしなかった。
鏡の中の少女の瞳からは止めどなく涙が流れ続けた。
その顔は、アリシア自身さえ見たことのない表情だった。