12-3.優雅なる襲来(下)
「これはぜひとも、来客の目につく場所に飾らねばな」
「玄関ホールがよろしいでしょうね。あそこなら、皆の目に留まるわ」
満足げなセバスティアンと、それに頷くマルグリットの言葉に応じて、使用人たちが慌ただしく動き出した。
オスカーはもう何も言わず、どこか遠い目をしていた。
騒がしかった一日が、ようやく終わりを迎えていた。
隊長としての大役を務め上げたアーサーは、すっかり疲れ果てて眠ってしまった。
ニーナも「家の用事があるから」と言って、名残惜しげにアリシアに手を振って帰っていった。
屋敷に訪れた静けさの中、アリシアはひとり、玄関ホールに立っていた。
改めて飾られた肖像画を見上げる。
アリシアの知る両親ではない。けれど、間違いなくふたりだ。
この絵には、知らなかったはじまりの時間が、初々しさとともに閉じ込められているようだった。
思い返せば、今日はたくさんの記憶に出会った。
古い地図、誰かの筆跡が残る書物、戸棚にしまわれていた香水瓶、そして──母の旧姓で綴られた恋文。
扉を開けるたびに顔を覗かせたのは、物言わぬ過去。
誰かが生き、愛し、泣き、笑い、日々を繋いできた証が、床のきしみや壁の陰にさえ残っているようだった。
(……どの場所にも、こんなふうに、いろんな人の時間が積み重なってるんだ)
過去は目に見えないけれど、確かにここにある。
アリシアは、そっと自分の胸に手を当てた。
誰かの手によって積み重ねられた日々の先に、自分がいる。
そのことが、誇らしく感じられた。
ふと、肖像画のレティシアと目が合った気がした。
(……お母様は、このとき、どんな気持ちでお父様の隣に立っていたのだろう)
そう思ったとき、アリシアは無性に、母と話がしたくなった。
その気持ちは、衝動というより、心の底から自然に湧き上がるものだった。
アリシアはレティシアを呼びに行って、玄関ホールを再訪した。
「お母様に、見てほしいものがあって……」
夕暮れの陽を受けて、壁に飾られた肖像画がほんのりと金色を帯びている。
「あら……まあ」
レティシアは足を止め、絵の前に立ったまま、その光景に目を細めた。
「懐かしいわ、この絵……。あの人のことだから、きっとどこかに大事にしまっておいてくれたのね」
口調はさらりとしていたが、そこには確かな信頼がにじんでいた。
しばらく黙って絵を見つめたあと、レティシアはふっと笑った。
「……昔のことを思い出すわね」
その声音には、どこか遠い響きがあった。
「私ね、はじめてあなたのお父様に会ったとき──なんて無愛想な人なの! って思ったのよ」
思いがけない告白に、アリシアは目を丸くした。
「顔も知らずに婚約が決まって、お会いすることになって……それはもう、目いっぱいおしゃれして行ったの。髪型も、ドレスも、ずいぶん悩んだわ。それなのに彼、挨拶以外はほとんど何も言わなくて。会話も続かないし、目もあまり合わせてくれないし……」
「それは……想像できます」
思わず口にしたアリシアに、レティシアはくすっと笑った。
「でしょう? 本当に、何を考えているのかぜんぜんわからなかった。でも……」
少しだけ言葉を切り、視線を絵から外して、記憶を手繰るように続けた。
「結婚してしばらく経った頃、私が体調を崩して、寝込んだことがあったの。熱も出たのに、大ごとにしたくなくて、静かにしていたのだけれど──」
レティシアはそっと目を伏せ、口元に懐かしげな笑みを浮かべた。
「夜中に目を覚ましたらね、彼が椅子に座って、うとうとしながら付き添っていたの。看病なんて、したこともない人なのに……何も言わずに、ただ黙って、ずっと冷たい水を替えてくれていて」
アリシアは、知らなかった父の姿に、思わず息を呑む。
「そのときようやくわかったのよ。ああ、この人はちゃんと見てくれているんだって。言葉じゃなくて、行動で伝える人なのだって──誰よりも、誠実な人なんだって」
絵の中の若き夫を見上げながら、レティシアはゆっくりと微笑んだ。
「そうしているうちに、いつのまにか思うようになったの。この人といれば、どんな日でも、悪くないって」
アリシアは、母のその横顔を見つめた。
そこには、今もなお恋をしている人のまなざしがあった。
もう何年も連れ添っているはずなのに、まるで昨日恋に落ちたばかりのようなみずみずしさがあった。
母は再び視線を戻し、絵の中の若き日のふたりを見つめ直した。
「でもね、そういう日々の連なりが、きっと本物なのよ。華やかな舞踏会も、立派な婚姻も、それだけでは愛にはならないわ。大切なのは、たぶん──明日の朝もこの人と一緒にいたいと、自然に思えるかどうか。それだけ」
それだけ、と言いながらも、その言葉は決して軽くなかった。
重ねた日々の重みと、確かな幸福が、そこにはあった。
──母は、父を本当に、深く愛している。
今この瞬間、ようやくそれが、すとんと心に落ちてくる気がした。
「……お母様」
アリシアは、少し俯いたまま、ぽつりと声をこぼした。
「もし、お父様が……いなくなってしまったら。お母様は、どうしますか?」
唐突な問いに、レティシアは一瞬だけ目を見開いた。だが否定はせず、むしろ慈しむようなまなざしで、やわらかに答える。
「泣くでしょうね。思いきり、大人げなく泣き腫らして──しばらくは何も手につかないかもしれないわ」
けれど、と静かに言葉を継ぐ。
「それでも……あなたたちの顔を見て、きっと思うのよ。『ああ、生きなきゃ』って」
アリシアは、その微笑みを見上げた。
その表情には、言葉にできないほどの強さと優しさがあった。
「どれほどの想いを、たったひとりに注いでも。すべてを捧げたいと思えるほど愛していてもね……ふたりきりの世界なんて、どこにもないのよ」
その言葉は、アリシアのなかでずっと形にならなかった思いを、すんなりとすくい上げてくれた。
自分はひとりで立っていたわけではなかったこと。
あらゆる人の支えがあり、愛があり──こうして、生きていけていること。
それは確かに、もう学んだはずだった。けれどいま、母の口から語られると、不思議なほどしっくりと胸に収まる。
「人を愛するってね、その人だけを見ることじゃないのよ」
「……愛は、いくつあっても、いいんですね」
「もちろん。愛は複雑で、重なって、広がっていくもの。消えたり、裏切ったりするんじゃなくて──命に宿って、形を変えて、残っていくの」
その言葉は、アリシアの誰にも明かせていない過去──かつてただひとりだけを愛し、裏切られ、絶望の淵に立ったこと──に、そっと触れてくるようだった。
彼女は、何も知らない。それでも、レティシアの語る言葉は、まるで祈りのように彼女の心に届いた。
母は娘の手をやわらかく包み、微笑んだ。
「アリシア。あなたは、あなたの人生を生きなさい。そして、あなたが愛したものすべてを、大切にしてあげなさい」
そして、もう一度──「アリシア」と名を呼び、語りかけてくれる。
「あなたがどんな未来を選んでも構わない。でも、私は母として、こう願っているの」
ひとつひとつの言葉を確かめるように、ゆっくりと。
「あなたの隣に立つ人が、あなたの涙に気づいてくれる人でありますように。嬉しいときに笑い合って、つらいときに隣にいることを、当たり前に思える相手でありますようにって」
そうして母は、やさしく微笑む。
「だからね、慌てなくていいわ」
その笑顔は、肖像画に描かれていたものよりも──はるかに美しかった。
絵の中の彼女はたしかに輝いていた。けれど今の微笑には、数えきれない季節のすべてが宿っている。
喜びも、哀しみも、誰かを愛し、誰かに愛されてきた日々のすべてが、この人の命に積み重なっているのだ。
そしてそのなかの、確かなひとつが──自分という娘に、今まさに注がれていることを、アリシアは実感していた。
*
「よし、わしらはもう帰るぞ!」
朗々と響く祖父の声に、アリシアは思わずそちらを向いた。
「えっ……もう?」
「十分堪能した! 屋敷も、孫も、肖像画も! 目的はすべて達したのだ!」
満面の笑みを浮かべて頷く祖父。その隣では、マルグリットが既に手慣れた様子で荷物をまとめていた。
最初からこの瞬間を計算していたかのように、動きに迷いがない。
「次はもっと大所帯というのもいいかもしれんな……」
そう呟きながら、セバスティアンはくるりと振り返る。
「よし、決めた! レティシア殿のご両親もお招きして、盛大にやろうではないか!」
「まあ……いいわね。楽しそう」
「なにをどこで催すかは──そのときのお楽しみということで!」
宴を勝手に決定するかのように振る舞い、祖父はにこにこと話を締めくくった。
使用人たちは慌てて玄関に馬車の支度を整え始める。
マルグリットがアリシアの前に立ち、優しくその手を取った。
「すてきな時間だったわ、アリシア。あなたの成長を見られて、本当に良かった」
「……ありがとうございました。どうか、お体に気をつけて」
「もちろん。あなたもね」
その横で、レティシアがそっと一礼した。
「お義父様、お義母様──今日はありがとうございました」
「うむ、うむ。レティシア、おぬしもいい母になったのう」
セバスティアンが満足げにすれば、マルグリットも微笑んで視線を向ける。
「ほんとうに。誇りに思うわ」
レティシアは少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに頷いた。
ふわりと香水の余韻を残して、マルグリットは夫の腕にそっと手を添える。
最後にもう一度、玄関ホールの肖像画を見上げて、セバスティアンは誇らしげに呟いた。
「いい絵だ。若い日の恋というものは、実にまばゆい」
「ふふ。じゃあ、次は老いた恋でも描いてもらいましょうか」
ふたりは笑い合いながら、来たときと同じく、あっという間に馬車へと乗り込んでいった。
去り際の風だけが、あとに残る。
急に現れて、急に去っていく──そういう人たちなのだ。
アリシアは、ぽかんとその背を見送った。
こうして、前侯爵夫妻による優雅なる襲来は、慌ただしくも幕を閉じたのだった。




