12-1.優雅なる襲来(上)
窓辺の椅子に腰かけて、アリシアは編み物をしていた。
くるくると丸められた柔らかな毛糸が、かごの中で静かに揺れている。
ふと、手が止まった。
編みかけの目を見つめたまま、思考が昨日へと引き戻されていく。
昼間の光景が、まざまざとよみがえった。
小さな食堂。差し込む陽の光。
深皿に立ちのぼる湯気。その中に盛られていたのは、葡萄酒で煮込まれた牛肉──玉ねぎやにんじん、きのこが寄り添うように添えられ、野菜の甘みがじんわりと溶け出した、やわらかい一皿だった。
もともとは、あまった肉や固い部位をなんとかおいしく食べるために工夫された料理なのだと、ラルフが教えてくれた。
固い部位も、香草や野菜とともに葡萄酒に漬けて一晩寝かせ、ゆっくりと時間をかけて煮込む──すると不思議と、心までほどけるようなやわらかさになるのだと。
ひと口運ぶたび、体の奥がじんわりとあたたまっていくようだった。
とろとろに煮込まれた牛肉は舌の上でほぐれ、ほのかな酸味とやさしい甘みが染み渡る味わいだった。
場所や人が変わっても──人が人を思って、手間と時間をかけてくれる料理のあたたかさは、変わらないのだと感じた。
昨日の食卓は、そんなことを思わせてくれる時間だった。
そういえば──と思い出す。
ラルフと食事をともにしたのは、昨日がはじめてではない。
十三歳の冬の夜。
ラルフが悪天候で帰れなくなり、急遽、屋敷に泊まることになった日があった。
そのとき、彼は侯爵家の食卓に招かれた。今より若い彼が、緊張した面持ちで礼儀正しく食事に臨んでいた姿が記憶に残っている。
けれど──あのときよりも、今のほうが、彼をずっと近くに感じていた。
ふたりで同じものを食べて、同じように笑って。
それだけなのに、空気がやさしく混ざりあって、自然と距離が縮まっていくような気がした。
周囲の人たちも冗談を交えながら、さりげなく彼を輪の中に迎え入れてくれていた。
だからこそ、ふと思う。
彼は、どうして自分と一緒に食事をしてくれたのだろう。
律儀な人だから? 親切だから? ──それとも。
問いの先を見つめたまま、アリシアの手はすっかり止まっていた。
編み針は膝の上に置かれ、毛糸玉はかすかに揺れている。
そうして、もはやただ毛糸を眺めるだけになった頃。
扉の向こうから、軽やかなノックの音が響いた。
「お嬢様。ニーナ様がお見えです」
控えめながらも澄んだ声。グレイスだ。
アリシアは、はっとして息を吸い、小さく頷いた。
「すぐ行くわ。お茶と、お菓子の用意もお願いできる?」
「かしこまりました」
扉の向こうの気配が、静かに遠ざかっていく。
アリシアは、編みかけの毛糸をそっと脇に置いた。
応接間へ入ると、ニーナはすでに椅子に腰かけており、アリシアを見るなり満面の笑みを浮かべた。
そばに置かれたかごの中には、布に包まれた小さな瓶がひとつ、ちょこんと鎮座している。
「あっ、アリシア! 遊びにきちゃった。昨日、りんごジャムを渡せなかったから」
「ありがとう、ニーナ。手紙に書いてあったものよね?」
「うん、そうだよ。いっぱい練習したんだから! ね、ちょっと味見してよ」
ニーナはいそいそと瓶の蓋を開け、持参したスプーンでジャムをすくう。
差し出されたそれは、黄金色に透き通った、とろりと美しい光を帯びていた。
ひと口ふくむと──蜂蜜で煮込まれたやさしい甘さが、口いっぱいにふわりと広がる。
「おいしいわ。やさしい味ね」
「でしょ~!」
得意げに胸を張るニーナの顔に、アリシアもつられて微笑む。
ほどなくして、グレイスが茶菓子と紅茶を用意して現れる。
その菓子は、ジャムにぴったり合うよう選ばれている──さすがの気配りだった。
ニーナは紅茶のカップを手に取ると、迷いなく小さじ一杯のジャムをぽとりと落とした。
「ジャムを……紅茶に?」
「うん! 砂糖の代わりにね、こうやって飲むとおいしいんだよ」
勧められるまま、アリシアも真似てジャムを落とし、そっとスプーンでかき混ぜる。
まずはひと口──ほんの少し酸味が立って、それをやさしい渋みが包み込む。
自然に、笑みがこぼれた。
アリシアがニーナの方を見ると、案の定、彼女はすでに得意げにこちらを見ていた。
「ね?」
「ええ。とても素敵な工夫ね」
そうしてジャムをもうひと匙、紅茶に溶かしながら──ニーナは、ちらちらとアリシアの横顔を窺っていた。
「で?」
「……何が?」
「しらばっくれても無駄だよ~。昨日のお昼! ラルフさんと一緒にご飯に行けたんでしょ?」
にやり、とニーナはカップを置く。わかっていて言っている顔だった。
「それでさ、アリシアはラルフさんのどんなところが好きなの?」
そしてさらりと、とんでもない爆弾を投げてくる。
「……っ、だ、だから違うってば、そういうのじゃ──」
慌てて否定するアリシアに、ニーナは紅茶をひと口啜ってから、涼しい顔のまま微笑んだ。
「ふうん? 完全に恋してるって感じの顔だったけどなあ~?」
「……そんなに?」
アリシアは、カップをぎゅっと両手で包み込むように持ち、小さく眉を寄せた。
「そーだよー。だってアリシアってば、やっぱり高貴なお嬢様~って感じで、いつもしゃんとしてるのに、昨日のあのときは……表情がこう、ふわあ~って感じだった!」
「そ、そんな……」
ぽつりと呟いたアリシアは、俯いたまま黙り込む。
その頬に、じわじわと赤みが差していくのが、自分でもわかった。
「わ、私、そこまでわかりやすいのかしら……」
「うん。めちゃくちゃわかりやすいと思う」
即答だった。
耐えきれなかったアリシアはカップを持ち上げて、顔をそっと隠す。
──と、そのときだった。
扉の向こうから、ひときわ騒がしい声が響いた。ばたばたと誰かの足音。慌ただしく動き回る気配。
「……少し、様子を見てまいります」
異変を察知したグレイスが、すっと動く。
扉に手をかけた──その瞬間。
かちゃりと音がして、ノブが勝手に回った。
次の瞬間、勢いそのままに、ひと組の老夫婦がずかずかと部屋へ押し入ってくる。
堂々たる足取りで部屋の空気を一気に攫いながら、彼らはぐるりと視線を巡らせた。
「──やはりここにもないではないか!」
「本当ねえ。いったい、どこに隠したのかしら?」
それは、ひと言で表すならば突風のような出来事だった。
しなやかな白髪に、はきはきと明るい声音。
衣服にほこりひとつなく、旅慣れた気品と底抜けの余裕を振りまきながら──彼らはこの屋敷に襲来した。
オスカー・レイモンド侯爵の両親。
すなわち、アリシアの父方の祖父母である。
爵位をオスカーに譲ったのち、ふたりは諸国を巡る旅に出ていた。年に数度書簡を寄越すだけで、滅多に帰ってくることはなかった。
アリシアの記憶の中にも、彼らの姿はぼんやりとしか残っていない。
幼い頃に一度、王都で顔を合わせたような──それすら夢か現か、曖昧なままだ。
豪胆で楽天的、そして尋常ならざるほどの好奇心。
誰が止めようと、見たいものを見て、言いたいことを言う。
それが、レイモンド侯爵家の前当主夫妻──元侯爵であるセバスティアンと、その妻マルグリットだった。
唖然とするアリシアの横で、ニーナがかすかに息を呑む。
そして──その背後から見覚えのある人影が半ば頭を抱えるような仕草で現れる。
「……止めようとは、したのだがな」
オスカーの低くぼやく声が、やけにしみじみと響いた。




