11-2.風が運ぶ記憶(中)
セシルが去ってからというもの、侯爵家の屋敷はほんの少しだけ静かになった。
あの快活な笑い声が聞こえないだけで、屋敷の空気が少し沈んだように思えた。
成長著しいアーサーは、ひとりで屋敷中を歩き回るようになり、今はその騒ぎが新たな話題となって、使用人たちの笑い声を引き出している。
相変わらず、賑やかで、あたたかくて──変わらない日常だ。
そして、今年もまた、帰郷の季節がやってきた。
レイモンド侯爵家では、領地へ向かう旅支度が着々と進められている。
王都を離れ、一家そろって領地へ帰るのは二年ぶりのことだった。
出発の前夜。
夕食を終えたあとの、静かな団欒のひととき。
アリシアは家族とともに、食後の茶を囲んでいた。
母は穏やかな笑みを浮かべながら、湯気の立つカップに口をつけ、
アーサーは今日の出来事を夢中で語っている。
そして父はといえば、会話に加わるでもなく、細めたまなざしでその光景をそっと見守っていた。
「ねー、あしたのあさにはしゅっぱつするんでしょー?」
アーサーが、ぱっと顔を上げて声を弾ませた。
「ええ。日がのぼるころには出るから、今夜は早くおふとんに入らなくてはいけないわね」
アリシアがやんわりと言うと、アーサーの顔にみるみるうちに不満の色が広がった。
「えーっ……まだねたくないよ」
むうっと口を尖らせ、腕をぶんと組んで見せる様子は、どこまでも正直だ。
「だって、もっとおはなししたいもん」
「でもね、朝に寝ぼけた顔で馬車に乗ったら、大事な旅のはじまりが台無しよ?」
アリシアは椅子から少し身を乗り出し、まだ小さな弟の頬をそっとつついた。
「それに……ねえさまも、アーサーと一緒にたくさんおしゃべりしたいわ。だからこそ、ちゃんと元気でいなくちゃ。ぐっすり眠って、いちばんの笑顔で、ね?」
「……んー……」
渋々ながらも、アーサーはきゅっと眉を寄せて考え込み、それからぽつりと呟いた。
「じゃあ……きょうははやくねる」
「ふふ。おりこうさんね」
アリシアが微笑むと、アーサーはすこし得意げな顔で胸を張って見せた。
だが、椅子の上では相変わらず足をぶらぶらとさせ、名残惜しげにきょろきょろと周囲を見回している。まだまだ話したいことは山ほどあるのだろう。
その様子があまりにも可愛らしくて、アリシアは思わず目を細めた。
弟のそんな姿に、かつての自分を重ねてしまう。幼い頃、年に一度の帰郷を、宝物のように待ちわびていた記憶がある。
それを今、当たり前のように迎えられることが嬉しかった。
*
馬車の車輪がゆるやかに軋んで止まる。
扉が開けば、まず目に飛び込んできたのは、懐かしい石畳。
ふわりと風が吹き抜け、高く伸びた並木の葉が揺れ、そのざわめきが耳にやさしく触れた。
正面に佇む屋敷は、以前と変わらぬ姿でそこにあった。年月の流れを抱えながら、それでもなお、凛とした風格を保ち続けている。
玄関の前には、管理人のガスパールが立っていた。
背筋を伸ばし、帽子を手に、到着を待ち受けるその姿は、どこか儀礼的でありながらも、親しみに満ちている。
その人影を目にした瞬間、アリシアの胸の奥に、やわらかな記憶がゆっくりと波打った。
──十三の頃、この地に足を運んだ日のこと。
あのときの彼女はまだ、緊張に頬をこわばらせ、言葉にならない「ただいま」を胸に秘めたまま馬車を降りていた。
それでもガスパールは、やさしい笑顔で迎えてくれた。それが、どれほど心をほぐれたことか。
しかし、アリシアは変わった。
彼女は迷いなく足を踏み出し、微笑みながら口を開いた。
「ただいま、ガスパールおじさん」
すると、陽に焼けた顔がぱっと綻んだ。
「おお、お嬢様! ようこそお帰りなさいませ!」
深々と頭を下げる所作は、何年経っても変わらない。
しかし、その声にはわずかに震えが混じっていて、それが長い時の重みをさりげなく物語っていた。
「お会いできなかったこの二年で、ずいぶんとお美しくなられて……」
ガスパールはくしゃくしゃと目尻を細めて笑う。
「おじさん! こんにちは!」
そこへ、ぱたぱたと駆け寄ってきたのはアーサーだった。
跳ねるような動きで元気いっぱいに挨拶する姿に、ガスパールは目を丸くし、すぐに笑みを深くする。
「坊ちゃまは、相変わらずお元気ですなあ……!」
しみじみと嬉しそうに何度も頷くその表情は、まるで孫を迎える祖父のようだった。
「へへっ、ぼく、はやくごはんたべたい!」
屈託のないその一言に、周囲で待機していた使用人たちから、くすくすと笑いがこぼれた。
ふと視線を移せば、あのとき見習いだったふたり──ベルとユアンの姿も見える。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
ベルがぱっとお辞儀をする。明るい声といい、凛と伸びた背筋といい、以前よりずっと堂々としていた。
一方のユアンは、やや緊張の色を残しながらも、きちんとした一礼を返す。その所作には落ち着きがあった。
はじめて会ったときはふたりともまだ慣れない制服に身を包んで、ぎこちなく立っていた。
今やもう、すっかりこの屋敷の一員らしい顔をしている。
時間は過ぎていく。
けれど、それは何かを失わせるだけでなく、少しずつ、確かに積み重なっていくものもある。顔つきも、声も、身のこなしも──すべてが、その証だった。
「……さあ、入りましょう。きっと、マリーが腕を振るってくれているわよ」
「やったー!」
弾む声とともに、屋敷の扉が開かれる。
懐かしい、けれど新しい──そんな一歩を、アリシアは家族とともに踏み出した。
*
翌朝。
アリシアは護衛の数名を伴って、ゆっくりと屋敷の門をくぐった。
街までおりると、まるで風が迎えてくれるような感覚を覚えた。
懐かしい匂いだった。木々の葉が朝露を吸い上げた匂い、遠くから届くざわめき、焼きたてのパンの香ばしさ。
そして、耳に届いたのは元気いっぱいの声だった。
「アリシア!」
声の主は、名前を呼んで駆け寄ってくる。
「……ニーナ!」
ふたりは目と目を合わせ、次の瞬間にはもう、笑顔が弾けていた。
そして、勢いのままにニーナが飛び込んでくる。
「わっ、ちょっと……!」
けれどアリシアは体勢を崩しながらも、そのまま彼女を抱きとめた。
「わあっ、本当にアリシアだ! ねえ、顔、ちゃんと見せて!」
「ふふ。……あまり変わってないでしょ?」
「ううん、変わったよ。ちょっとだけ、すごくきれいになってる」
「まあ。ちょっとなのか、すごくなのか、どっちなの?」
肩を揺らして笑い合う。
そうして腕を離したあとも、手だけはつないだままだった。
「ニーナは髪、伸ばしたのね」
「うん。どう、似合ってる?」
「ええ。とてもいいと思うわ」
貴族と平民──身分差があるけれど、ふたりは気にしないようにしていた。
侯爵家の人々も、領民たちも、それを微笑ましげに見守ってくれている。
そうしてふたりは、ゆっくりと街道を歩き出した。
風が通り抜けていく。
どこか遠くから、子どもたちの笑い声が聞こえた。
通りの角を曲がったとき、かつて泣き虫だった果物屋の少年が、いまでは立派な青年になって店先に立っていた。
ニーナが誇らしげに「ね、かっこよくなったでしょ?」と囁く。
市場の片隅には、小さな花壇ができていた。
誰が作ったのかと尋ねれば、「私だよ!」とニーナが胸を張る。
空き地を掃除して、子どもたちと一緒に育てているのだという。
昔ながらのパン屋の前を通ったとき、窓から顔を出したのは、かつての老夫婦ではなく、その娘夫婦らしきふたりだった。
「お店を継いだの。あの味はそのまま残ってるんだよ」と、ニーナが教えてくれる。
アリシアはもう一度、空気に混じる香りを確かめる。
たしかにそれは、昔と変わらぬ匂いだった。
──そして、そのとき。
ふっと、なぜだかひときわ馴染みのある気配が、鼻先をかすめた。
無意識にそちらへ視線を向け、立ち止まる。
軽くまくった袖、革の手袋、腰の工具袋。
その格好は見慣れないものであったが──あのどこか無造作な、癖のある栗色の髪は見覚えしかない。
「……ラルフさん?」
思わず洩れた名前に、ニーナもぴくりと顔を上げた。
「えっ、知り合い?」
ラルフはまだこちらに気づいていない。
仲間と何か話しながら、荷台に腰かけて、涼しげに水を飲んでいる。
その立ち居振る舞いは至って自然で、最初からこの街の一部であったかのように、風景に溶け込んでいた。
どうしてここに──。
問いは胸の内に留まり、言葉にならない。
動揺をごまかすようにアリシアは視線を逸らすが、鼓動の高鳴りだけは隠せなかった。




