11-1.風が運ぶ記憶(上)
季節の風が少しだけ秋の気配を運んでくるようになった。
真昼の陽差しはまだまぶしいが、朝夕にはひんやりとした空気が混じってきている。
アリシアは日課となった手紙の整理をしていた。きれいに整えられた便箋の束が、机の上に重ねられている。
使用人が運んでくる自分宛の文は、デビュタントを迎えてからというもの、明らかに増えている。
貴族の娘として、十七歳──遅めの社交界入りを果たした今、彼女の名は噂と期待と憶測の的となっていた。
封蝋の色も、筆跡の癖も、それぞれに差出人の家格や意図を物語っている。
誰かの噂が、別の誰かの手紙を誘い──憶測は憶測を呼び、便箋の山をさらに押し上げていた。
内容はさまざまだ。
格式張った祝いの辞を並べたもの。遠まわしに近況をうかがうもの。あからさまに縁談の打診を匂わせる文もある。
中には、名も知らぬ貴族の令息からの、突然の求愛すら紛れていた。
(結婚、か……)
指先が、無意識に紙の端を撫でる。
いずれは家のために──そう考えるのは、ごく自然なことだった。
貴族の娘として生まれた以上、結婚とは家同士の契約であり、義務であり、時に政治でもある。
だがアリシアは王家との婚約を断り、両親もそれを受け入れてくれた。今もアリシアの決断を待つつもりでいてくれているようで、まだ婚約者が決まっていないことが話題に上ることは少ない。
(私は……)
彼女の中には、根付いてしまった感情がある。
それは紛れもなく、ラルフへの想い──けれど、彼は侯爵家に出入りをしているとはいえ平民だ。
恋は、ただの感情だ。
それを未来に繋げることは、簡単なことではない。
貴族として生きる自分には、背負うべき名があり、責務がある。
それに、恋のままに振る舞うことで身を滅ぼしてしまうかもしれないというおそれもまた、ともに息づいていた。
ふう、と小さく息を吐き、手元の束をそっと崩しかけたとき──ふいに、指が一通の封筒に触れた。
上質な封蝋も、整った紋章もない。少しだけ厚手で、手作りのにおいがする、素朴な紙。
沈んだアリシアの表情が懐かしさに引き寄せられて、ふっと和らいだ。
「……ニーナからだわ」
思わずこぼれた呟きは、部屋の空気にそっと溶けていった。
その封筒の宛名には、「アリシアへ」と、少し不格好ながら懸命に綴られた文字がある。
けれど、アリシアにとっては、これ以上なく美しい筆跡だった。
ニーナ──アリシアが十三歳の秋、人生をやり直したばかりの年に、領地で出会った平民の少女。
その頃のニーナは、まだ読み書きに自信がなかった。
しかし「アリシアと手紙をやりとりしてみたい」と言って、字を覚えるために自ら努力を重ねた。
いまでは年に数度、こうして文を交わし合う仲になった。
ニーナの手紙に綴られる言葉は、社交界の礼儀作法にも、貴族の駆け引きにも染まらない、まっすぐな光のようだった。
読むたびに、アリシアの心をふっと照らしてくれる。
秋になると、アリシアは領地へ戻り、直接会って、たわいのない話をして過ごした。
けれど昨年は──デビュタントの準備に追われて、帰郷が叶わなかった。
そのことがずっと、どこか胸の奥に引っかかっていた。
──そして、今年。
封を切る指先に、自然と慎重さが宿る。
中から出てきた便箋には、いつものように、真心のこもった文字が並んでいた。
アリシアへ
こんにちは。おげんきですか?
わたしはげんきです! でも、ちょっとさみしいです。
去年はアリシアに会えなかったのが、ほんとうにさみしかったです。
でも、手紙をくれてうれしかった。
今年は、会えるよね?
わたし、おいしいりんごジャムをつくれるようになったんだよ!
アリシアにも食べてほしいな。ぜったい、おいしいです!
たのしい話も、ないしょの話も、たくさんしたいです。
だから、だから、きっと、今年は帰ってきてください。お願いします!
楽しみにしています。
ニーナより
真剣に綴られた文字たちはときどき転びながら、それでもまっすぐに進もうとする筆跡に、思わず頬が緩んでしまう。
読み終えた手紙をそっと胸に当て、アリシアは穏やかに目を閉じた。
きらきらと陽の射す領地の風景、草の香り、子どもたちの笑い声──言葉では言い尽くせないほどの愛おしさが、胸の奥に静かに満ちてゆく。
(──今年こそ、会いに行かなくては)
少女時代の思い出と、今の自分とをつなぐように、手紙の温もりをしばし感じながら、アリシアは微笑んだ。
「お姉様っ!」
ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてきたかと思えば、扉がわずかに開き、その隙間からセシルの顔がひょいと覗いた。
「まあ……もしかして、それは……!」
彼女の目が、アリシアの手元の便箋を捉え、見るからに期待を込めた声が跳ねる。
「ラルフ様から、ではございませんの!?」
その名前に、アリシアはびくりと肩を揺らした。
「……ち、違います」
わずかに早口で否定すると、セシルはあからさまに肩を落とし、「あら、残念……」と口を尖らせた。
まったく、最近のセシルときたら、いつもこんな調子だ。
アリシア自身、ラルフに対するこの気持ちに気づいたのはつい最近のことだった。
誰にも明かしたつもりなどない。むしろ、気づかれないようにと、意識して振る舞ってきたつもりである。
──それなのに。
セシルの目は、まるでなんでもお見通しだと言わんばかりにきらきらと輝いていた。
しかも、その気配に気づいた彼女は、アリシアの背を押すように、全力で応援までしてくる。
そんなふうに真正面から好意的なまなざしを向けられてしまうと、どうにも落ち着かない。どこに気持ちを置けばよいのかわからず、アリシアは思わず小さく首をすくめた。
「……ねえ、どうして……」
戸惑いが言葉になる。けれど、その続きを口にする前に、セシルが先回りしてにんまりと笑ってみせた。
「乙女の勘ですわ!」
その答えに、アリシアは思わず笑いそうになる。
困ったように、けれどどこか嬉しげに、ふっと唇をほころばせた。
「手紙の主は、ニーナよ。領地に住んでいる子。私の、大切な友達なの」
「まあ……お姉様から何度かお聞きしました、あの子ですわね!」
ぱあっと花が咲くように顔を明るくするセシル。
「領地の収穫祭で会ったとおっしゃってましたわよね? なんてすてきなご縁……!」
「ええ。とても素直で、頑張り屋さんなの。会えるのが、本当に楽しみだわ」
穏やかに微笑むアリシアの横顔を、セシルはじっと見つめる。
やがて、ほんの少しだけ視線を伏せ、唇を尖らせた。
「私もお会いしてみたかったですわ……ご一緒できないなんて、残念です!」
そう。セシルの帰郷は、もう間もなくに迫っていた。
その日、ふたりは最後のティータイムをともに過ごした。
紅茶の香りがふわりと広がるたびに、季節の移ろいがどこか切なさを連れてくる。
「──次にここでお茶を飲めるのは、果たしていったいいつになるのでしょう……」
セシルが、ぽつりと呟いた。
別れはまだ少し先のことのようでいて、もう目の前だった。
ふたりの間に流れているこの時間は、きらきらと輝いていて、そしてほんの少し、名残惜しかった。
*
──それから数日後。
セシル・グレインは、ついに帰郷の日を迎えた。
玄関前には馬車が待機し、使用人たちが荷物の積み下ろしに動いている。旅支度を終えたセシルは、帽子を押さえながら、少し名残惜しそうに振り返った。
アリシアは玄関先で、彼女の姿をじっと見つめていた。
「……本当に、帰ってしまうのね」
「ええ。でも、夢のような時間でしたわ。お姉様と毎日一緒にレッスンして、お茶をして、デビュタントを迎えることができて……!」
ふたりの視線が絡まり、くすりと笑い合ったあと、アリシアはふと、視線を逸らした。
何かを言い出すのを迷うように、ほんの少しの沈黙が落ちる。
「……ありがとう。セシル」
「──え?」
呼び慣れたその名が、あまりにも優しくて──セシルは思わず瞬きをした。
アリシアが、今、初めて「セシルさん」ではなく、「セシル」と名前を呼んだ。
それだけのことなのに、胸がいっぱいになった。
セシルは言葉よりも早く、駆け寄ってその細い肩に抱きついた。
「お姉様! いま、私のこと……!」
声が震えそうになるのをこらえながら、それでもあふれる喜びを隠しきれない。
彼女は感激に目を潤ませ、すぐにしっかりとアリシアの手を取った。
「私は、いつまでも応援しております!」
「ど、どうしたの、急に……?」
困惑するアリシアに、セシルはぴしりと人差し指を突き立てる。
「なにがとは言いませんけれどっ! とにかく、私、お姉様の未来に期待しておりますのっ!」
勢いそのままに、彼女はくるりと身を翻すと──
「さようならですわっ! アリシアお姉様ーっ!」
まるで風のように馬車へと駆け込み、窓越しに元気いっぱい手を振ってきた。
「きっと、お幸せになってくださいませねーっ!」
アリシアは、ぽかんとしたまま手を上げ、それから小さく笑って、手を振り返した。
セシルの乗った馬車はやがて門の向こうへと消え、あの明るい声も聞こえなくなった。
庭の木々が風に揺れている。
葉擦れの音のなかに、ふと──セシルの笑い声が混じったような気がした。
もう聞こえないはずの声が、どこかに残っている。
そんな錯覚を覚えながら、アリシアは微笑んだ。
「……ほんとうに、元気な子」
その声音には優しさと愛おしさが滲んでいた。
足元にひらりと舞い落ちた一枚の葉を拾い上げる。
初秋の風に乗って落ちたその葉は、まだわずかに夏の色を残していた。
十六歳春~デビュタント準備期間
早春に十七歳の誕生日を迎え、その後にデビュタントを迎えています!
(書いていなかった気がする……)




