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10-2.芽吹きとざわめき(中)

 

 

 アリシアは昼下がりのサロンの片隅で、ティーカップを持ったまま視線をさまよわせていた。

 気がつけば、また──上の空。

 

 ふと、アリシアは手の中のティーカップに目を落とす。

 そうしてまたラルフの顔を思い出すたび、胸があたたかくなるのだった。

 

 

 アリシアの心は、すでに満ち足りていた。

 父と母、そして弟からの揺るぎない愛、セシルの無邪気な敬愛、そして屋敷の皆の深い信頼。

 それらすべてがアリシアの存在を彩り、デビュタントという節目で背筋を伸ばしていられた。

 

 かつては、決して届かない高みに咲く花を仰ぎ見るばかりで、渇きに似た焦がれる感情に身を焼いた。

 しかしラルフを想うとき、その心はまるでいつの間にか根を張っていた草花を見つけるような、小さな驚きに満たされる。

 

 それは嵐のようにすべてを掻き乱すものではなく、ただ既にそこにある花々を、もっと鮮やかに、もっと輝かせるような陽光。

 遠い憧れではなく、足元で確かに新しい生命が息づいているような、あたたかい実感を伴うものだった。

 

 この静かなきらめきも──“恋”だというのか。

 それは経験したことのない感覚だった。

 

 ラルフは近頃、屋敷に顔を出していない。

 

 以前はアーサーに会うためと称して、頻繁に屋敷へと足を運んでいた。アーサーもラルフを見つけるたび、まっすぐに飛びついていったものだ。

 けれど今は、少し様子が違っていた。アーサーにも年相応の友人が増え、昔ほどラルフラルフとは騒がなくなっている。

 

 ラルフ自身もまた、いまや家業の実務に深く関わっている。

 商会の一員として、父の補佐にとどまらず、使節の役目すら果たすようになった。

 

 だから、必然的に会う機会は減っていた。

 

 けれど彼の不在は、決して日常に穴を開けるものではない。

 庭園に影が差すわけでも、満ち足りた泉が涸れるわけでもない。

 ただ──彼がいれば、その景色がもっと美しく輝くのだろうと思った。

 

(……会いたい)

 

 そのひと言を、アリシアはまだ誰にも言えずにいた。

 

 

 

 

「──さて。それでは、作戦会議ですわ!」

 

 ぱん、と音を立ててテーブルを叩くと、セシルは高らかに宣言した。

 集まっているのは、メイドのサラ、リナ、ジーナ、そしてアーサーである。

 

「とは申しましても、恥ずかしながら私、ラルフ様のことをほとんど存じ上げておりませんの。何度かお屋敷にいらしたのはお見かけしましたけれど、具体的なこととなると、何ひとつ……」

 

 セシルは肩をすくめ、真剣な面持ちで皆を見回した。

 

「そこでお願いがございます。どうか、ラルフ様についてご存じのことを──どんな些細なことでも構いませんので、私に教えていただきたいのですわ!」

 

 その言葉に、メイドたちは顔を見合わせた。

 最初に口を開いたのは、明るく元気なサラだった。

 

「ラルフさんって、ほんっとうに丁寧な方なんです! 廊下ですれ違うだけでも、必ず立ち止まって、深々と頭を下げてくださるんですよ」

 

 おとなしいリナも、小さく頷いて言葉を継ぐ。

 

「私は以前、執事様と地方の特産品についてお話しされているのを聞いたことがあります。気候や土壌のことまで詳しく尋ねておられて……すごく勉強熱心な方なんだなって」

 

 そして、マイペースなジーナがふわりと身を乗り出した。

 

「えっとぉ……ラルフ様、商談の帰り道にお庭をちらっと見ていらっしゃるのを、何度かお見かけしましたっ。あれは、きっと自然を愛するお優しい心の現れだと思います~」

 

 最後に、アリシアの弟アーサーが、嬉しそうに胸を張って言い放った。

 

「ラルフ、すごいんだよ! こまってる人がいると、ぜったい助けてくれるの。なんでもなおしちゃうし、とうさまもかあさまも、すごいねーって言ってた!」

 

 セシルは目を輝かせながら、ひとつひとつの証言に耳を傾けていた。

 皆の言葉が重なるたびに、それは増していく。

 

「なるほど……控えめながらも礼儀正しく、商売に真摯で、自然を愛し、人のために尽くすことを惜しまない方。そして、侯爵様ご夫妻からの覚えもめでたい……」

 

 うんうんと頷いて、セシルはこぶしを握りしめた。

 

「ラルフ様は、すばらしいお方ですわ! 私、全面的に応援いたします!」

 

 思わず拍手を送るメイドたち。小さな祝福のような音が、作戦会議室──セシルが滞在している客間──に響いた。

 

 だが、その空気に水を差すように、サラがふと呟く。

 

「……でも、じゃあどうしてお嬢様、最近あんなに元気なさそうなんでしょう?」

 

 空気がぴたりと止まる。リナが、はっとしたように目を見開いた。

 

「そういえば……ラルフ様、最近まったくお見えになっていませんよね?」

「まさか……」

「お姉様のあの憂い顔の原因は──」

 

「ラルフ様ロス!?」

 

 声が重なった瞬間、セシルがばっ、と立ち上がった。瞳が燃え、スカートが力強く揺れる。

 

「──ならばっ! 我々がラルフ様を連れてくるしかありませんわ!」

 

 高らかに掲げた拳に、誰よりも大きな声でアーサーが「おーっ!」と叫ぶ。

 

「待っていても始まりませんわ! 私たちが迎えに行きましょう!」

 

 突然の展開に、サラとリナは目を丸くし、ジーナが恐るおそる口を挟む。

 

「ほ、ほんとうに……行かれるんですかぁ……?」

「もちろんですわ! これはアリシア・レイモンド様の初恋、いえ──運命の恋かもしれないラルフ様との再会を果たすための、一世一代の大作戦なのです!」

 

 するとアーサーが、無邪気にひと言。

 

「だったら、とうさまに言ったらいいよ。ラルフ、すぐ来てくれると思う!」

 

 その瞬間、セシルの顔が真っ青になった。

 

「──っ、それはだめですの!」

 

 勢いよく机を叩いて、全員がびくりと肩を跳ねさせる。

 「どうして?」と首を傾げるアーサー。

 

「お姉様の秘密を、侯爵様に知られてごらんなさいな……。平民の青年に心を寄せていると知ったら、間違いなく血の気が引いて、卒倒されますわ!」

 

 アーサーはあまりぴんと来ていない様子だったが、メイドたちはその光景が目に浮かんだのか、無言で頷いた。

 

「だからこそ、我々の出番ですの。この恋は、誰にも知られず、秘密裏に──清く、美しく、ふたりだけのものとして──」

「セシル様、なんか急に耽美です……」

「うるさいですわ! 私は真剣なのです!」

 

 セシルの手には、すでに作戦会議用の紙とペンが握られていた。

 

 

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