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10-1.芽吹きとざわめき(上)

 

 

 デビュタントから、数日が過ぎた。

 

 セシル・グレインが王都に残ることになったのは、そんなある朝のことだった。

 本来なら舞踏会を終えてすぐに婚約者とともに帰郷する予定だったのだが──その婚約者が、王都で要職に就く伯父の補佐を一時的に任されたことで、セシルもまたしばらく王都に留まる運びとなったのである。

 

「でも、お姉様と、もっとご一緒できるなんて……私……っ!」

 

 その朗報──セシル曰く──を聞いたとき、彼女は目尻にうっすら涙を浮かべながらアリシアに抱きついてきた。

 「夢のようですわ~!」と何度も繰り返し、婚約者も思わず苦笑いしてしまうほどのはしゃぎぶりだった。

 

 

 

 

 セシルが滞在するあいだ、ふたりで紅茶を囲む時間は、いつしか日課のようになっていた。

 この日も変わらず、サロンのテーブルをはさんで向かい合っている。

 

 アリシアは、そっとティーカップに角砂糖をひとつ、落とした。

 銀のスプーンが静かに揺れ、紅茶の中をくるくると円を描く。

 もうひとつ。さらに、ひとつ。──また、ひとつ。

 

 白い欠片が、次々と沈んでいく。

 

「……お姉様?」

 

 控えめな呼びかけに、アリシアはぴくりとも反応を示さなかった。

 まるで遠い夢のなかにいるように、ふたたび角砂糖をつまみ、無意識のまま紅茶に落とす。

 

 ぽとん。

 

 甘やかな香りが、さざ波のように広がった。

 カップのなかで沈みゆく白は、音もないまま、跡形もなく溶けていく。

 その動作を繰り返す彼女の瞳は、どこか遠くを見ているようで、スプーンの回る音だけが響いている。

 

「お姉様……あの、そろそろ……」

 

 恐る恐るセシルが声をかけたとき、アリシアのカップにはすでに数え切れないほどの角砂糖が沈み、行方をくらましていた。

 それでもアリシアの指は止まらない。

 くるくる。くるくる。くるくると──

 

「──あっ……!」

 

 ふいにスプーンの軌道が乱れ、アリシアの手から角砂糖が滑り落ちた。

 そこでようやく、アリシアは我に返ったようだった。

 

「……ご、ごめんなさい。なんでもないの」

 

 思わずといった様子で笑みを浮かべて取り繕うアリシア。

 けれど、その表情にはいつもと違う色が混じっていた。

 

(……おかしい……絶対に、おかしいわ……)

 

 セシルはそっとカップを置く。

 かすかに眉をひそめ、真剣なまなざしでアリシアを見つめた。

 

(気のせいじゃありませんわ……これは──乙女の直感ですもの!)

 

 決意がひとつ、胸に灯る。

 椅子を引く音が、凪いだ部屋にわずかな緊張を走らせた。

 

「セシルさん?」

 

 小首をかしげるアリシアに、セシルはきっぱりと頷いてみせる。

 

「大丈夫ですわ、お姉様。ご心配には及びません!」

 

 謎の確信に満ちたひと言を残し、セシルはつかつかとサロンをあとにする。

 その背は不自然なほどまっすぐで──取り残されたアリシアは、ただ呆気に取られたまま、その背を見送るしかなかった。

 

 

 廊下に出たセシルは、小さなこぶしを握り締めていた。

 

 ほんの先ほどの──アリシアのあの表情。

 

 そこには確かに、翳りがあった。

 淡く漂う影が、心の奥から立ちのぼっているかのようだった。

 

 あれは、悩みを抱える人の顔だ。

 ──見間違えるはずがない。

 

「いいえ。お姉様は、悩んでいらっしゃるに決まっています!」

 

 セシルは静かに、しかし力強く言い切った。

 そして──気づいてしまった以上は。

 

「放っておくなど、このセシル・グレインには不可能というものです!」

 

 まるで勝手に選ばれし使命のように。

 胸の奥で、炎のような義務感が燃え上がる。

 

「お姉様の憂いは、私が必ず晴らしてみせますわ!」

 

 そう言い放つなり、セシルはドレスの裾を翻して屋敷を駆け出した。

 その勢いはまるで風のようで、行く先に待つ真実さえもひるませそうなほどだった。

 

 

 

 

 まず彼女が向かったのは、温室の裏手。

 香り立つ草花のあいだで、老庭師グレゴリーが水やりの準備をしていた。

 

「セシル様ではありませんか。いきなりどうされたんですか?」

「グレゴリーさん……教えてください。お姉様に、最近なにか──変わったご様子は、ありませんでしたか?」

 

 問われたグレゴリーは帽子を脱ぎ、しわだらけの額をぽりぽりと掻きながら、少し考え込んだ。

 

「それはまあ……このあいだの水やりのときなんか、少し驚きましたよ。目を離した隙に、花壇にじょうろ一杯まるごと注いでしまって……。土の表面が、池みたいになってしまいましてね」

「じょうろ一杯……!?」

 

 セシルの眉がきゅっと跳ね上がる。

 

(まさか、あの自然を愛するお姉様が、花々を溺れさせるような真似をなさるなんて……!)

 

 

 次に彼女が向かったのは、厨房だった。

 そこでは料理長のマティルダが、粉をまぶした手でパイ生地をのばしている。

 

「料理長様! お姉様は最近、お料理に挑戦なさってますか?」

「おやおや、何か調査かね? そうねえ、この前は新しい焼き菓子に挑戦していたみたいですよ」

「まあ! さすがはお姉様、向上心のかたまりですわ!」

「ところがねえ、ちょっと目を離した隙に……真っ黒に焦がしちまって。あれじゃ石炭よ、まったく!」

「……石炭……ッ!」

 

 セシルの顔に、絶望の色が差す。

 

(お菓子を焦がすだなんて、アリシアお姉様が……そんなはずがないのに!)

 

 

 そして最後に訪れたのは、屋敷の奥まった部屋。

 アリシアのかつての乳母、マーガレットが、淡い糸で縫い物に勤しんでいた。

 

「マーガレット様。お姉様の……最近のご様子、なにかお気づきになったことはございませんか?」

 

 マーガレットは糸を巻いた手を止め、ゆるやかに微笑んだ。

 

「そうですね……刺繍の途中で、うっかりご自分の指を刺してしまわれて。血がにじんでおりましたが、なんでもないと仰って、そのまま笑っていらして……」

「流血事件まで……ッ!?」

 

 セシルは蒼白になり、まるで悲劇の報せを受けた貴婦人のように口元を覆った。

 

(これは──これはもう、ただごとではありませんわ……!)

 

 

 これまで集めた証言は、どれも──アリシアには、到底あり得ないと思えるような失態ばかりだった。

 ただの気の迷いか、それとも偶然の重なりか。

 

 ──いいえ、それでは説明がつきませんわ。

 

「お姉様は、何かを……きっと、誰にも言えない“何か”を、隠していらっしゃる!」

 

 燃えるような正義感とアリシアへの敬愛からなる、暴走。

 セシルは、またしてもこぶしを固く握りしめた。

 

「お姉様……いったい、あなたに何が……!」

 

 その眼差しは、まるで屋敷の陰に潜む陰謀を暴かんとする名探偵そのものであった──。

 

「使用人の皆さま、ご協力、まことに感謝いたします! 真相は、私が──必ずや突き止めてご覧にいれますわ!」

 

 彼女は鼻息も荒く、ぴしりと背筋を伸ばして高らかに宣言する。

 その背中には、呆れと微かな不安を交えた複数の視線が注がれていたが──もはや、そんなものは彼女には届かなかった。



 そして、奔走していたセシルが中庭を横切ろうとしたそのとき──


「最近のお嬢様ってぇ……なんか、変じゃないですかぁ?」

 

 風の向こう、そんな声がふと耳をかすめた。

 ぴたり、と足が止まる。

 

(──いまの、聞き捨てならなくってよ!?)

 

 耳を澄ませば──若いメイドたち、サラ、リナ、ジーナの三人が、小声でひそひそと噂を交わしている。

 

「実は……わたしも、少し思ってました……」

「だよね~!? いつものお嬢様だったらあんな失敗しないもん!」

 

 ──これは、確実に、有力な証言。

 セシルは凛とした足取りで彼女たちの輪に歩み寄り、すっと声を差し挟んだ。

 

「その話、詳しく聞かせてくださらない?」

 

 ぴくぴく、と三人の肩が跳ねる。

 

「セ、セシル様……っ!?」

 

 同時に背筋を伸ばして目を丸くする三人を前に、セシルは堂々と頷いた。

 

「私はいま、お姉様のご様子について調査中ですの」

「ちょ、調査……?」

「ええ、すべての謎を解き明かすために、今、私は真実を追っているのですわ。あなたたちも、力を貸してくださいますわよね?」

 

 真剣そのものの眼差しに、三人は顔を見合わせ──やがて、こくりと頷く。

 

「……もちろんです!」

「お嬢様、なんだか元気がなさそうですもんね……」

「わたし、心配で眠れないくらいで……」

 

 いつしか彼女たちは、ひとつの秘密を分かち合う同志のように、肩を寄せ合っていた。

 

「きっと、なにかご事情があるんだと思うんですけど……」

「な、なにかぁ、大きなご病気だったら……どうしましょうっ……」

「でも病なら、お医者様が呼ばれているはずですわ……!」

「もしかして、ひとりで抱え込んでたりとか……!?」

 

 全員が神妙な顔をして、静かに視線を伏せかけた、そのとき。

 

「ねえねえ、みんな、何してるの?」

 

 ぱあっと陽だまりが差し込むような声。

 振り返れば、そこに立っていたのは──

 

「アーサー坊ちゃま……!」

 

 レイモンド家の末っ子、アーサー・レイモンド六歳。

 あどけない笑顔に似合わぬ奔放さで、日々屋敷を駆けまわる、いたずら盛りの若君である。

 

 両手を後ろに組んだ彼は、つぶらな瞳をきらきらと輝かせながら尋ねてくる。

 

「ねえさまのこと、お話してたの?」

「えっ……ええ、まあ……その……」

 

 曖昧な返事に、アーサーは誇らしげに胸を張って言い放った。

 

「あのねー、ぼく知ってるよ! ねえさまって、ラルフのことが大すきなんだ!」

 

 ──ぴしっ。

 その場の空気に、目に見えないひびが入った。

 

「…………」

「…………」

「…………」

「……えっ」

 

 最初に口を開いたのはジーナだった。血の気がすっと引いていくのが、横顔からも分かる。

 

「ラ、ラルフって……あの、ウォード商会の……?」

「まじめで、大人しいラルフさん……?」

「ええええええええーーーーっ!?」

 

 サラの叫びが、優雅な午後の中庭を震わせた。

 

 その中央で、セシルは絶句していた。

 足元の石畳が、音を立てて崩れていくような衝撃。

 

「ま、まさか……お姉様の異変の原因って……そ、それはつまり──」

「……こ……こいわずらい……!?」

 

 誰かが呟いたその一語に、何かが弾けた。

 

「ねえさまはねぇ、ラルフを見ると、いっぱいにこにこするんだ~」

 

 天真爛漫な笑顔で、アーサーは決定的な一撃を放つ。

 少女たちは茫然と、その無垢なる天啓を見つめるしかなかった。

 

(……な、なんという……これは完全に、盲点でしたわ……)

 

 セシルは膝から力が抜け、その場にぺたんと座り込むと、天を仰いだ。

 そして、打ち震えるように呟く。

 

「や、病は病でも……っ」

 

 ──恋だったのですか、お姉様……!?

 

 

 

 

コミカル回です。

 

 

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