9-3.夜明け色のデビュタント(下)
拝謁を終えたその夜は、年に一度の特別な舞踏会が催されることになっていた。
それは晴れて社交界に名を連ねた若き貴族たちを、正式に迎え入れる宴である。
そんな中、アリシアは控えの間の一角で息を整えていた。
ゆっくりと吐き出す呼吸には、かすかに残る緊張と、確かな覚悟が同居している。
そこへ、ひときわ軽やかな声が響いた。
「アリシアお姉様……!」
ぱたぱたと裾を揺らして駆け寄ってきたのは、セシルだった。
「私、できましたわ! ちゃんと陛下に、ご挨拶を!」
息を弾ませながら、誇らしげに胸を張るその姿に、アリシアも頬を緩めた。
そっと彼女の手を取り、しっかりと包み込む。
「よかった。これであなたも、すっかり一人前のレディね」
「それもこれも、お姉様のおかげですわ!」
ふたりは顔を見合わせ、くすりと笑い合った。
だがセシルは、ちらりと視線を扉のほうにやってから、落ち着かない様子で胸元のリボンを指でなぞった。
「ああでも、どうしましょう……ここで気が抜けて、大失敗をしてしまったらと思うと、私……」
言葉の終わりは、少し情けなく震えている。
けれどその背後に、ふわりと花のような香りが漂った。
「大丈夫よ、セシル」
おだやかな声に振り返ると、そこにはレティシアが立っていた。
差し出された手が、セシルの肩にやさしく触れる。
「貴族の舞踏会なんて、始まってしまえばあっという間よ。緊張する暇もないくらいにね」
その言葉は慰めというより、ほんのりした余裕と、未来への期待を含んだひと言だった。
セシルは、はにかむように目を伏せ、小さく頷いた。
「……はい。がんばりますわ」
彼女の声にはほんの少しだけ背伸びをしたような響きが宿っていた。
その背伸びは、まだぎこちなく、どこかくすぐったくて──だからこそ、見る者すべての胸をやさしくあたためるようだった。
それからの舞踏会に向けての化粧直しの最中、セシルの視線は何度も扉の方へと跳ねていた。
頬に筆を当てられても、まるでくすぐったいとでも言うように、ころころと楽しげに笑いながら身じろぎする。
──まもなく、セシルの婚約者が到着する。
そのことを誰より楽しみにしているのは、ほかでもない本人だった。
落ち着きのなさは不安からではなく、抑えきれない嬉しさがときおり溢れ出してしまう、そんな年頃の乙女にしかできない、純粋な高揚のしぐさだった。
その様子を、アリシアはすぐ隣の椅子からそっと横目で眺めていた。
そして──ほどなく、扉がノックされた。
控えの間に入ってきたのは、礼装に身を包んだひとりの青年だった。
その目がセシルを捉えた瞬間──
「来てくれたのね!」
ぱっと花が咲くように頬を染めて、セシルは一歩、二歩と跳ねるように彼へと駆け寄った。
つい先ほどまで、きちんと作った髪やドレスの裾を乱さないようにと緊張していたはずの彼女が、今ではすっかり無邪気な少女の顔に戻っている。
青年は静かに微笑み、視線を落とす。
セシルの淡いドレスに目を細め、ふっと唇を綻ばせた。
その視線に応えるように、くるりと一回転する。
光を帯びたドレスの裾がふわりと揺れ、少女の喜びを包み込んだ。
「ふふっ、どう?」
「……似合っているよ。君がいちばん綺麗だ」
さらりと、けれど迷いなく告げられたその一言に、セシルは誇らしげににんまりと笑った。
けれど──すぐに、視線の端にアリシアとレティシアの存在を捉えた。
ふたりのやわらかな視線に気づいた途端。
セシルの顔がみるみるうちに赤く染まり、口をぱくぱくさせながら、慌てて背筋をしゃんと伸ばす。
「領地がお隣の、幼馴染なのですって。仲良しねえ」
レティシアがのんびりと茶目っ気まじりに告げる。
セシルが恥ずかしさに首をすくめる傍らで、アリシアもふっと笑って頷いた。
やがてセシルが「あの、ご紹介いたしますわ!」と声を張り、アリシアとレティシアにもきちんと青年が紹介された。
レティシアは気品を含んだ控えめな微笑で挨拶し、アリシアは侯爵令嬢らしく丁寧な礼節をもって応じる。
青年もまた、礼儀正しい所作と落ち着いた声音で名乗り、短いながらも和やかな会話が交わされた。
そして、アリシアは父──オスカーと合流した。
金糸をあしらった紋章入りの正装に身を包み、相変わらず厳格な横顔と、研ぎ澄まされたような沈黙がある。
無言のまま、オスカーはひとつだけ、小さく頷く。
アリシアは恐れることなく、父の腕を取った。
──扉が、開かれる。
その瞬間、目の前の世界が、ひときわ絢爛に広がった。
無数のシャンデリアが天井を照らし、豪奢な音楽の調べが空気を満たす。
この夜のために集った貴族たちの視線が、一斉に、扉の方へと注がれた。
そして、場内に朗々と響く、紹介の声──
「レイモンド侯爵家令嬢、アリシア・レイモンド様。御入場なさいます」
その名が高らかに告げられた瞬間、会場の空気がかすかに震えた。
ざわめきが、波紋のように広がっていく。
それは歓迎というにはあまりにも色濃い、驚きと、詮索と、抑えきれない好奇のさざめきだった。
「……あの令嬢が、ようやく……?」
「かつて殿下の婚約者にと目されていた方でしょう?」
「なぜ今になって?」
視線は鋭く、囁きは執拗に。
けれど、アリシアは一切顔色を変えなかった。
ただ、ふっと唇を弓なりに上げる。──やわらかく、それでいて気高く。
たったひとつのその微笑みで、ざわめきは一瞬にして鎮まり、誰もが言葉を飲み込んだ。
彼女のドレスは、まさに光をまとうようだった。
歩みとともに揺れるスカートの裾に繊細な金糸の刺繍が舞い、宝石のようにきらめいた。
それはもはや衣ではなく、一幅の絵画のような存在感を帯びていた。
アリシアは視線も、姿勢も、寸分も逸らさずに前を向く。
あらゆる思惑も、噂も、彼女を縛ることはできなかった。
そしてその背を支えていたのは、誰でもない彼女自身の誇りと、重ねた日々から浮かび上がる微笑みだった。
美しさは、それだけでは人を黙らせはしない。
真に人を黙らせるのは、その奥にある揺るぎない意志と、立ち向かう勇気だ。
アリシア・レイモンドは、ただ美しいだけの娘ではない。
その場にいた誰もが、無意識のうちに、そう悟らずにはいられなかった。
やがて、音楽がゆるやかに変わる。
それは今宵この舞踏会で最初に奏でられる──デビュタントを迎えた者のための、記念のワルツだった。
「行こうか、アリシア」
隣にいたオスカーが、低く声をかけた。
いつも通りの厳格な面差しを保ちながらも、差し出されたその手は──ほんのわずかに、震えているようにも見えた。
アリシアは、微笑んでその手を取る。
「はい、お父様」
次の瞬間、序奏の余韻を切るように、音楽が広がった。
父と娘のワルツが、静かに始まる。
くるりとドレスの裾が空気をはらみ、やわらかく舞い上がる。
繊細な金糸の刺繍が、灯の粒を拾ってきらめき、そのひとすじひとすじが、まるでこれまでの歩みを祝福するようだった。
軽やかに、優雅に──けれど、どこか切なく、胸を揺らすあたたかさがあった。
ふと横に視線を送れば、セシルの姿が見える。
少し離れた場所で、婚約者と寄り添い、幸せそうに笑っていた。
くすぐったそうに彼を見上げ、何度も頬を綻ばせるその横顔は、幸福という名の光そのものだった。
(……幸せそう)
その光景に、アリシアの胸の奥が、ふわりとやさしく満たされてゆく。
心のどこかで問いかける──私も、あんなふうに笑える日が、いつか来るのだろうか。
けれどその思いは言葉にはせず、目の前の父の手へと、意識を戻した。
導いてくれる大きな手。
不器用ながらも、常に見守っていてくれたまなざし。
音楽の拍にあわせて舞うたび、そのすべてが胸に染み入る。
──ふいに、父がぽつりと呟いた。
「……もう、子どもではないのだな」
アリシアは驚いて顔を上げる。
そこには、硬い面影の中に、かすかな笑みを滲ませたオスカーの顔があった。
「いつの間にか……本当に、立派になった」
「お父様……」
アリシアは、そっと言葉を返す。
「それでも、いつまでも……私は、お父様の娘です」
父は答えなかった。
けれど、その手に、ほんの少しだけ力がこもる。
音楽が、やがて幕を閉じるように静まりゆく。
ふたりの舞も、すっと流れるように止まり、舞踏の余韻だけが場に漂った。
止まったドレスの裾が、天井の光を受けて淡く揺れ、繋いだ手の間に、言葉にしない思いがやさしく宿る。
──それは、父と娘が共に過ごした、かけがえのないひととき。
ひとつの舞が終わっても、確かに残る絆の温もりが、ふたりの間にはたしかにあった。
舞踏会は、華やかさの絶頂を迎えていた。
天井から降り注ぐ無数の光、重なり合う音楽と足音、そして笑い声。
新たな一歩を踏み出す者たちの輪が、今宵を彩っていく。
夢のような喧騒の中で、アリシアは会場の片隅、バルコニーに佇んでいた。
指先でそっと胸元に触れ、ひとつ深く息をつく。
そのまま視線を落とした先には、自らの纏うドレスがあった。
──この色を選んだのは、自分自身だった。
けれど、それに気付かせてくれたのはラルフだった。
思い出すのは、誠実なまなざし。控えめな仕草。
やさしくて、それでも揺るぎのない人。
ぽつりと、胸の奥に何かが落ちた。
(……見てほしかった。この姿を、あの人に)
その願いに、自ら戸惑う。
(どうして、そんなことを思うの……?)
舞踏会のざわめきが、ふっと遠のく。
胸に去来する感情の輪郭を、思い出の中から探そうとする。
先ほどのセシルのことを思い返した。
婚約者にいちばん綺麗だと言われ、笑っていた彼女の姿。
(もし、ラルフさんに、あんなふうに言われたら……)
ただの空想にすぎないはずなのに、胸が熱くなる。
──知っている。この感情。
幼い頃、エドワードへの恋心に焦がれたあの日の、ときめき。
(でも……違う。まるで違う)
ラルフを思うとき、心は地に足をつけていた。
虚勢も背伸びもいらない。ただ、あるがままの自分で、おだやかに笑っていられた。
だから、まったく違うもののはずなのに。
(私……)
思わず頰に手をやる。熱い。
この熱の名前を、ようやく理解する。
(ラルフさんのことが──)
心の底から沸きあがるこの感情に、アリシアは息を呑んだ。
こんなにやさしい想いが──こんなにもあたたかく包まれるような想いが、あの身を焦がす激情と同じだというのか。
ようやくアリシアは、高鳴る胸の理由を知った。
あまりにも自然で、さりげなくて、でも深く息づいていた、この感情。
意識の届かぬところで、芽はすでに伸びていた。
それは、摘み取るには遅すぎて。
忘れるには、根を張りすぎていた。




