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序-3.春はまだ遠く、されど(下)

 

 

 そして、再び季節が一巡しようとしていた。

 風はまだ冷たく、屋敷の廊下には、足音がひとつ足りないままだ。

 

「父様」

 

 アーサーが、古びた絵本を手に歩み寄ってくる。

 それは姉がいつか聞かせてくれた、おとぎ話が綴られた本だった。

 

「“幸福の鏡”って、本当にあるの?」

 

 その言葉に、オスカーの瞳がかすかに揺れた。 

 

 幸福の鏡。それは、かつて本当に王家に存在したとされる秘宝のことだ。

 のぞき込んだ者が、もし幸福でなかったなら。そしてそれを求めるその願いが、あまりにも強く、あまりにも切実であったならば。

 鏡は静かに、音もなく割れるという。そして同時に、世界もまた、ひとつの運命から別たれるのだと。それは“望んだ者”のための、新たな幸福の可能性。

 けれどそれは、あまりに曖昧で、不確かな話だ。これが本当だったとして、真偽を確かめることは誰にもできはしない。

 

「姉様が話してくれたんだ。鏡に映らない女の子が、割れた鏡のかけらを持って、どこかに旅立つんだって」

 

 アーサーの瞳は澄んでいた。

 無垢というより、静けさをたたえた瞳だった。

 その視線に触れたとき、オスカーの胸の奥に小さな痛みが走る。

 

「……それが、もし本当にあったなら……」

 

 言葉を探すように視線を落とし、手のひらを握り込む。

 その顔には一瞬だけ、遠い光を追うような痛ましい希望が浮かんだ。

 

「もし、それがあの子を救う力を持っていたのなら……」

 

 絞り出すような声が、途中で途切れる。

 それから自分に言い聞かせるように、静かに首を振った。

 

「いや……。“幸福の鏡”なんてものは、ただの昔話だ。──おとぎ話だよ、アーサー」

 

 否定したその声は、どこか震えていた。

 アーサーは、うん、とだけ言って笑った。

 

「じゃあきっと、姉様は、別の方法で幸せになるんだね」

「……そうだな」

 

 オスカーは、そっと手を伸ばした。

 その手が触れたのは、まだ少年の名残を残しながらも、確かに青年へと向かいつつあるアーサーの髪だった。

 それでも──彼はまだ侯爵にとって、守られるべき子どもだった。死を理解してしまうには、あまりに若く。その喪失を抱えてなお、未来へ歩み出そうとするには、あまりに純粋だった。

 

 不器用な手が、そっと彼の髪を梳く。

 それは慰めというにはぎこちなく、だが確かに、あたたかだった。

 

 この手が娘をこうして撫でてやれなかったことを、オスカーは今でも深く悔いていた。

 皮肉なことに娘を失うという悲劇を経て初めて、この手は息子の髪をそっと撫でられるようになったのだ。

 

 アーサーはその手の重みを受けとめようとするかのように首を傾けた。

 

「母様がね、お茶を淹れたんだって。父様も一緒に行こう」

 

 

 失われた命は戻らない。

 だが、レイモンド家はそれでも生きていく。春がまだ遠くにあろうとも。

 彼女の想いに恥じぬように。彼女の誇りであるために。

 

 侯爵は、遠く空を仰いだ。

 その青さの奥に、確かに──あの娘の笑顔が、浮かんだような気がした。

 

 

 

 

 むかしむかし──この国に、心優しく聡明な娘がいました。

 高貴な家に生まれ気品と慈愛をたたえたその娘は、誰よりもまっすぐに人を愛していました。

 

 そして彼女には、運命を誓い合った王子がいました。

 けれども王子は、愛というもののかたちを知りません。

 やがて王子は別の令嬢に心を奪われ、輝きだけを追い求めて娘を手放してしまったのです。

 それは誇り高い娘にとって、何よりも残酷な仕打ちでした。

 

 ──けれども娘は、決して呪いの言葉を吐くことはありませんでした。

 ただ静かに微笑み、最後の言葉を手紙に綴ってこの世を去ったのです。

 

 「どうか、愛しいあなたが幸福でありますように。

 私は、あなたを呪いません。

 永遠に、心から、愛しています」

 

 娘が去ったあと、王子の目はようやく開きました。

 

 しかし時すでに遅く、王子はすべてを失いました。

 国の信用、民の信頼、そして自らの理性までも。

 

 やがて幽閉され、王子は誰とも口をきかなくなりました。

 幻の令嬢と語らいながら、誰にも届かぬ愛を囁き続けたのです。

 

 そう語りかける王子の前には、もう誰も、いませんでした──。

 

 それからというもの、この国では語り継がれるようになりました。

 

 「愛を踏みにじる者は、愛に取り憑かれる」

 「偽りの幸福を選べば、永遠に幻に囚われる」と。

 

 少女たちはこの話を聞いて、真の愛とは何か、誠実さとは何かを学びました。

 少年たちはこの話を聞いて、人の心を傷つけることの重さを知りました。

 そして大人たちはこの話を聞いて、美徳と過ち、許しと呪いが隣り合わせであることを思い出しました。

 

 ──かくしてこのお話は、「青き令嬢と呪われた王子の物語」と呼ばれ、王子と令嬢の名が忘れ去られようと、長きにわたり、人々の記憶に刻まれていったのです。

 

 

 

 

 灯の落ちた部屋の片隅で、ひとりの母親が子を膝に抱きながら、そっと語り始めた。

 

「むかしむかし、ひとつの国に、たいそう優しい王子様と、たいそう美しいお姫様がいました……」

 

 その物語は穏やかに始まりながら、やがて哀しみの岸へと辿り着く。

 

「お姫様はどんな時も王子様のために尽くし、どんなに辛い時でも彼を信じて愛し続けました。けれど、王子様はそんなお姫様を裏切ってしまいました」

「えっ……どうして……?」

 

 子どもは目をぱちくりさせ、小さく身じろぎする。

 

「王子様は、別のお姫様と結婚することに決めたのです。そして、お姫様を冷たく追い払ってしまいました」

「なんで? なんでそんなことしたの?」

 

 その素朴な質問に、母親は少し黙ってから答える。

 

「王子様は、ほかに欲しいものがあったのよ。お姫様の愛を失ってでも、手に入れたいと思ったの」

「それ、ひどいよ!」

 

 子どもは顔をしかめて言う。

 

「でも後になって、王子様もひどく後悔したの」

「あとから気づいたんじゃだめでしょ? だってお姫様はもういないのに」

 

 母親は微笑みながら頷く。

 

「ええ。後悔しても、取り返しのつかないことってあるのよ」

「でも、ちょっとだけ王子様もかわいそうかも……けど、それでもお姫様を傷つけちゃだめだよね」

 

 その言葉に、母親はやわらかく微笑みながら告げた。

 

「そうよ、誰でも間違いはあるわ。でも、誰かを深く傷つけたときには……その重さは、自分の心にずっと残るの」

「うん……だから、ちゃんと、大事にしなきゃだよね。だいすきな人のこと」

 

 ぽつりと子どもがそう言うと、母親はその頭をそっと撫でた。

 

「その気持ちを忘れないで。優しくあること、大切にすること──それがね、いつかきっと、あなた自身の幸福への道を開いてくれるから」

「うん! このお姫様も、どこかで幸せだったらいいね」

 

 笑顔を浮かべた子どもは母親の顔を見上げた。

 

 その何気ない言葉は、確かに小さく世界を震わせた。

 季節の縁を、ほんの少しだけ綻ばせるような気配だった。

 

 

 そして、遠く──別の世界で、少女が静かにまぶたを開ける音が、風の中に混じっていた。

 

 

 

 

 あたたかな日差しが、重ねられたレースのカーテンを透かして部屋を優しく照らしていた。

 永き眠りから覚めるように、ゆるやかに瞼を押し上げる。

 

「あれ……私、死んだはずじゃ……?」

 

 ──もし、すべてが始まる前の世界へ行けたなら。

 それでも、偽りの永遠に囚われた彼が救われることはないけれど。

 

 

 別たれた運命の先の祝福を、拾い上げることができるのかもしれなかった。

 

 

 

 

幸福の鏡については番外編にて登場していたやつです。

 

 

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