9-2.夜明け色のデビュタント(中)
朝陽を受けて、王城はまばゆいばかりに輝いていた。
馬車が止まり、扉が開かれる。最初に降り立ったのはセシルだった。薄緑のドレスの裾を軽く摘まみ、やや緊張した面持ちでアリシアを見上げる。
「お姉様……がんばってくださいませね。あとでまた、お会いしましょう!」
そう言ってにこっと微笑み、連れの侍女とともに案内役に従って歩き出す。セシルは子爵家令嬢として、若年貴族をまとめた集団拝謁に参加するため、別の控えの間へと向かうことになっていた。
一方でアリシアのように侯爵家以上の出自を持つ者は、個別での拝謁が許されている。その意味するところは、ただの格式の違いだけではない。君主に直接、名と顔を記憶されること。責務も、覚悟も、その分だけ重くなるということだ。
アリシアの隣には、レティシアが静かに寄り添っていた。少し距離をとって、グレイスも控えめに付き従っている。
──そのときだった。
遠くに、数名の供を連れた一団が見えた。
数名の従者を伴い、ゆるやかに歩いていくその中心にいたのは──忘れるはずのない人影。
光を拒むように鈍い銀の髪に、冬の硝子のように冷ややかな瞳の、凍てつく美貌。
(……エドワード様──)
レティシアの気配が一瞬、ぴりりと強張るのを感じた。グレイスもまた、さりげなく歩幅を詰め、アリシアを庇うように立ち位置を調整する。
けれどアリシアの歩みは止まらなかった。
足を緩めることも、顔をそむけることもせず、ただ前を向いている。
(……あれ?)
視界の端に映ったとき、懐かしさが胸に浮かんだのは確かだった。けれど、不思議なほど心は凪いでいた。
この瞬間にどれほどの痛みが胸を貫くか、おそれていた。哀しみに震え、崩れ落ちてしまうかもしれないと覚悟していた。だが──何も起こらなかった。
痛みも、怒りも、驚きすらもなかった。
控えの間に入ったところで、レティシアがそっとささやいた。
「……あら、大丈夫なのね」
アリシアが頷くと、レティシアはほっとしたように微笑み、グレイスも小さく息をついた。
「まだ立太子はされていないから、拝謁の場ではお会いしないはずよ」
その声とともに、母の手がそっと背に触れた。優しく、温かく。
(前の人生では──この時期にはあの方はすでに立太子の礼を終えていて……そして、私はその隣にいたはずだった)
それは、ただの事実の確認に過ぎなかった。
エドワードを思い出しても、その姿を見つけても、もうアリシアは揺らがなかった。
それよりも、あの人のことを思い返したときのほうが、よほど──……。
名前を呼ばれた瞬間の、低くやわらかな声。
困ったように笑う顔。まっすぐ差し出された手と、嘘のない真摯なまなざし。
あの人の──ラルフのことを思い出すときのほうが。
彼が目の前にいるときのほうが。
──よほど、心が騒いだ。
(……なにを、考えているの、私は)
我に返った瞬間、頬がかっと熱くなった。
鏡のなかの自分にすら悟られてしまいそうなことを恥ずかしく思って、アリシアは慌てて視線を逸らす。
そのとき、扉の向こうから名を呼ばれた。
「アリシア・レイモンド様。拝謁の時刻でございます」
しんと空気が澄む。
アリシアはひとつ、深く息を吸った。そして迷いなく顔を上げる。
その瞳には、確かな光が宿っていた。
母とグレイスに小さく頭を下げ、アリシアは控えの間をあとにした。
ひとり歩む足元で、ヒールの音を絨毯が吸い込まれていく。
回廊を抜け、重厚な扉の前に立ったとき、近衛が無言で扉を押し開けた。
──広間の静寂に、音が吸い込まれていく。
高窓から射し込む陽光が、磨き抜かれた床に幾筋もの光の帯を描いていた。
その奥に、王と王妃が静かに座している。
左右には、列席する大臣たちの威儀正しい姿、各家の貴族、そして本日参列する令嬢たちの後見人や親族たちが見守っていた。
その中には、レイモンド侯爵──オスカーの姿もあった。
凛とした横顔は微動だにせず、ただ、父としての誇りと静かな瞳をもって、娘の歩みを見つめていた。
アリシアは、ひと息分の静寂を抱えたまま、ゆるやかに歩き出した。
絨毯のうえに、糸を引くように足音が重なっていく。
夜明けの気配をまとうコーラルピンクのドレスが、光をすくって淡く揺れた。
レイモンド侯爵家に伝わる金糸の刺繍は、陽光にあわせてかすかにきらめき、まるで歩みの先を照らしているかのようだった。
──あれが、アリシア・レイモンド。
第一王子の元婚約者候補として知られていた少女。
けれど、今この場に立つその姿に纏っているのは、過去の肩書きではない。
そこにあるのは、凛とした意志と、自らの手で選び取った美しさだった。
玉座の前に進み、静かに足を止める。
そして、礼を取った。しなやかに膝を折り、優雅に頭を垂れる。
それは、幼少より教わってきた正しい礼法のすべてを込めた一礼だった。
「レイモンド侯爵家が娘、アリシアでございます」
揺るがぬ声音が、大理石の壁に柔らかく反響していく。
王と王妃は、ゆるやかに微笑み、頷きを返した。
「よくぞ参られた、アリシア嬢。面をあげよ。そなたの成長を目の当たりにできたこと、たいへん喜ばしく思う」
王の言葉は、穏やかであった。
「そなたの家門は代々国に忠誠を尽くしてきた名家にして、そなた自身もまた、礼節を重んじる見事な娘と聞き及んでいる。今後も、志を忘れず励むがよい」
「もったいなきお言葉、身に余る光栄と存じます。レイモンド侯爵家の名に恥じぬよう、務めを果たしてまいります」
言葉に、誇り高くも慎み深い気品が宿る。
それを誰よりも感じ取ったのは、王その人だったのだろう。再び頷き、凪いだ目をアリシアへと向けた。
けれどそのまなざしには、なお過去の縁を惜しむ色が、かすかに滲んでいた。
「……いずれは、エドワードの傍に立つこともあるやもしれぬ、と考えておったのだがな。それが叶わなかったのは、わしとしても、いささか残念に思う」
広間の空気が、すっと張りつめた。
しかしアリシアは動じなかった。
──そう。
かつての私は、それが正しき未来だと信じていた。
けれど、今の私はもう──。
静かに、深く一礼をして、アリシアは顔を上げた。
「ご厚情、恐れ入ります。ですが──私は、エドワード殿下の傍には、参りません」
言葉は落ち着いて、確かな響きを持っていた。
「過去のご縁には、深く感謝しております。けれど、私は……」
一拍、間を置いて、凛としたまなざしで告げた。
「……自ら選び取った道を、胸を張って進んでまいります」
その声音には、迷いも、怯えもなかった。
しん、とした広間の中に、少女の──否、ひとりの女性の覚悟が、確かに刻まれた。
王は、しばし黙したのち、ふっと目を細めた。
そして深く、頷いた。
「……そうか。ならば、もはや言うまい。……そなたの未来に、幸多からんことを」
その言葉が下されると、空気がやわらかくほどけた。
アリシアはもう一度、深く頭を下げる。
それ以上、何も語らず、己を過剰に飾ることなく。
礼の終わりとともに、拝謁は正式に終わった。
立ち上がるアリシアの背筋はまっすぐだった。
まるで、ここに立つことこそが自然であったかのように。
──けれどこの場を去る足取りには、重ねてきた日々のひとつひとつが、確かに宿っていた。




