表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/54

8-3.贈る手と選ぶ心(下)

 

 

 午後の陽がやわらかく差し込み、そよ風が薄絹のカーテンを揺らす。

 侯爵家のサロンは昼下がりのおだやかさに包まれながらも、どこかそわそわとした気配を帯びていた。

 

 窓辺のテーブルには、ティーセットと今朝焼かれたばかりのビスケット。

 湯気のたつカップを挟んで、アリシアとセシルが向かい合っている。

 

 ティーテーブルに頬杖をつきながら、セシルが身を乗り出した。

 

「アリシアお姉様は、どんなドレスになさいますの? やはり王都で流行りのパウダーブルーでしょうか。それとも、お姉様の髪の色に合うシャンパンゴールド?」

 

 彼女の瞳はきらきらと輝き、声が弾んでいる。

 

「まだ……決めかねているの」

 

 しかし、対照的にアリシアの声は静かだった。

 アリシアがそっとカップを置くと、セシルは「まあ!」と小さく声をあげた。

 

「お姉様が、そんなにご決断に迷われているなんて。でも、どんなお色でもお姉様はお似合いになりますわ!」

 

 すぐに笑みを浮かべ、セシルは体を揺らして椅子にもたれた。

 そのあと、自分の予定を嬉しそうに語り始める。くるくると表情が変わっていく様子は、見ているだけで心が和んだ。

 

 セシルが選んだのは、ペールグリーン。

 初夏の若葉を想起させるその色は、子どものころから大好きだったという。

 

「だからお姉様も、ご自分のお好きな色を選ばれるのがよいかと思います!」

 

 頰を紅潮させながら語るその姿は、まるで花のつぼみがふくらむように幸せそうだった。

 

(私の……好きな色)

 

 その言葉に、アリシアはふと胸の奥を覗きこむような気持ちになった。

 これまでの人生、自分の好きな色をじっくり考えたことがあっただろうか。

 

 ──前の人生では、ドレスの色はいつも青だった。

 第一王子であるエドワードが好んだ色。彼の隣に立つ者として「似合う」と言われた色。

 もはや遠い過去の、十五歳のデビュタントもそうだった。婚約を発表したあと、彼の腕を取り、青のドレスに身を包んだ。

 

 けれど今は──十七歳になった今年、アリシアは父のエスコートでデビュタントを迎える予定だ。

 何もかもが違っている。人生そのものが、すでに変わってしまっているのだ。

 

 だから、ドレスの色も好きに選んでいいはずだった。

 過去の延長ではない、自分のためだけの一着。

 それなのに──アリシアはまだ、決められずにいた。

 

 ドレスデザインの選定はすでに終わっている。採寸も仮縫いも済み、あとは本縫いを待つばかり。

 だが、布地がまだ決まらない。そこに色がなければ、ドレスは形を成さない。

 

 

 しかしどれだけ考えても、何を選べばいいのかわからなかった。

 

 答えの出ないまま夕暮れが訪れ、日が落ちる頃には──その想いをそのまま引きずるように、アリシアはひとり、自室の机に向かっていた。

 

 

 灯りを落とした部屋の中で、蝋燭のゆらめく炎が、机上に広げられた布見本の色を静かに揺らしている。

 どれも選び抜かれた上質な布地。光沢感のある手触りもよいそれらは、王都の最新流行を取り入れた申し分ないものばかりだった。

 

 それでも──アリシアの心は、どの色にも動かなかった。

 

(……私が、ほんとうに好きな色って、なんだろう)

 

 ふと、視線を上げる。

 窓の外には夜の帳が降りていて、遠く星の瞬きがひとつだけ見えていた。

 

 思い浮かんでくるのは、心に残っているささやかな日々のかけらの景色たち。

 春に庭で綻ぶの花。夏の高く広がる澄んだ空。秋に実った果実のつややかさ。冬の食卓に灯る、家族の笑顔と料理。

 

 そして──朝焼けの色。

 

 夜を越えて、また朝がやってくると教えてくれる、あのあたたかくやわらかな光の色。

 

 ふと胸に浮かんだその一色に、心がゆるりと波立つのを感じた。

 

(そうだわ)

 

 ゆっくりと立ち上がり、寝台脇の棚に置かれた刺繍箱を取り出す。

 長年使い込まれた箱の留め金を外し、蓋をそっと開けると、色とりどりの刺繍糸が並んでいた。

 

 その中に──燦然と存在を主張する一本の糸がある。

 

 既製品には見つからなかったその色を、新たに作って届けてくれた──世界にただひとつの、光の角度によって金色にも桃にも見える糸。

 

(私は……この色が、好きだと思う)

 

 小さな確信が生まれた。

 そっとその束を取り上げると、指先にふわりと温もりが移ったような気がした。


 アリシアはようやく机を離れ、静かに燭台の火を吹き消した。

 

 

 

 

 翌朝──。

 アリシアは小さな決意を胸に、レティシアの部屋を訪れた。

 

 朝の光の中、母はちょうど花瓶の手入れをしているところだった。

 その手付きは丁寧で、指先には年輪のように積み重ねられた優雅な習慣が滲んでいる。

 

「お母様……」

 

 おずおずと声をかけると、レティシアは振り返り、目を細めた。

 

「あら、アリシア。こんな朝早くからどうしたの?」

「あの……ドレスの件なのですが。金糸で装飾をする予定だったでしょう? それを……ハンカチに使った刺繍糸でできないかと思って」

 

 アリシアの言葉に、レティシアはゆるやかに微笑んだ。

 

「まあ、あの糸ね。素敵だと思うわ。きっとあの色なら、上品さも可憐さも兼ね備えられるはずよ。それで、布地の色は決まったの?」

「いいえ、まだ……」

「そう……。でも、焦らなくて大丈夫よ。じっくり考えて、自分がいちばん心地よくいられる色を選びなさいな」

 

 その言葉は、揺るぎない信頼に満ちていた。

 

 アリシアは小さく頷く。

 自分のために色を選ぶという行為が、こんなにも難しく、そしてあたたかいものだったのだと、今になって初めて知った気がした。

 

「刺繍の依頼は、私から正式にお願いしておきましょうか? それとも、あなたから直接ラルフくんに?」

 

 さりげない問いかけに、アリシアはわずかに目を伏せた。

 迷いの影が過ぎるのは一瞬だけ。やがて彼女はゆっくりと首を振った。

 

「……私から、お願いしたいです」

 

 それはただの礼儀ではない。

 彼の手を信じ、あの糸を通して自分の想いを託すという選択だった。

 

 

 

 

 そしてアリシアはウォード商会に書簡を送り、ラルフを屋敷へ呼び寄せていた。

 用件はひとつだけ。けれど、どうしても自分の口から伝えたかったのだ。

 

 数日後。ノックの音が、静かな部屋に響いた。

 

「お嬢様。ウォード商会のラルフ様がいらしています」

 

 告げる声に、アリシアは顔を上げた。

 机の上には、刺繍糸の束──金にも桃にも見える、あの色がある。

 

(……ちゃんと伝えなくちゃ)

 

 言葉を選びながら立ち上がり、胸元でそっと両手を組んで息を整える。鼓動が、少しだけ早い。

 

 応接間の扉を通ると、彼はそこにいた。

 

 いつ見ても変わらない、おだやかな姿。

 アリシアの入室に気がつくと立ち上がり、丁寧な礼を見せてくれる。

 

「ラルフさん。お忙しいところ、お時間をいただいてすみません」

「いえ、とんでもありません。お嬢様のお役に立てるなら、いつでも」

 

 ラルフは、いつものやわらかい笑みで首を振った。

 その言葉は、どこまでも自然で嘘のない響きを持っていた。

 だからこそ、アリシアは困ってしまう。しかし小さく息を吸い込んで、本題に入ることにした。

 

 着席を促し、己も彼の向かい側に腰を下ろす。

 使用人たちが静かに紅茶と菓子を用意した。

 

「以前、お願いした刺繍糸……あの糸が、本当に綺麗で。もし可能なら、あの色を、ドレスの刺繍にも使えたらと思って……。デビュタント用の、大切な一着なのです」

 

 彼女の言葉を受けて、ラルフは一瞬だけ目を見開く。しかしすぐにおだやかな笑みを浮かべ、頷いた。

 

「承りました。光栄に思います、お嬢様。専門の職人も手配いたしましょうか?」

 

 ラルフのその目が、まっすぐにこちらを見つめている。

 気取らないながらも、真摯なまなざしだ。

 

「はい、お願いします。でも……」

 

 だからなのか──アリシアの声音は、ふと曇りを見せてしまった。

 

「まだ、ドレスの色がまだ決まらなくて」

 

 そしてその先の言葉も、こぼれ落ちる。

 

 言ったあとで、アリシアは戸惑いを覚えた。

 どうしてそんなことを口にしてしまったのだろう。

 わざわざこの場で打ち明けるような話ではなかったのに──。

 

 しかしラルフは、そんな彼女の気持ちの揺れを責めることなく、ただ静かに応じた。

 わずかに眉を上げたものの、驚きを咎めるでもなく、焦りもせず問う。

 

「お望みの色が、見つからないのですか?」

「いえ……そうではなく。わからないんです。私が望んでいる色が、どんなものなのか……」

 

 そのやさしい声に導かれるように、ついにはセシルにも、母にも告げたことのない迷いが顔を出した。

 

「……今まで、そういうふうに考えたことがなくて」

 

 その言葉には、過去の影があった。

 自分の好みではなく、誰かの期待に応えることが、いつだって最優先だった。

 青を選んだのも、王子の隣に立つ者として「似合う」と言われたから。

 それが当然だと思っていた。むしろ、それ以外の選択肢があるとさえ考えていなかった。

 

 今はもう、違うはずなのに──好きな色を問われると、答えが出せない。

 それがひどく情けないような、悲しいような気持ちになっていた。

 

 俯いてしまったアリシアを前に、ラルフは静かに考え込むように目を伏せ、やがて再びそっと問いかけた。

 

「つい手に取ってしまう色や、目を引く色。心がふっと惹かれる色……何か、ありませんか?」

 

 急かすのではなく、寄り添ってくれるような言葉だった。

 

「ゆっくりで構いません。思い返してみてください」

 

 アリシアは言われた通りに、今までのことを思案する。

 

 やがて、はっとしたように目を見開いた。

 思い浮かんだのは──自分に選んだ、ハンカチの色。

 

 淡い光が差し込む窓辺のような、どこかあたたかいコーラルピンク。

 それは、ありふれたピンクとは少し違う。海深くから引き上げられたばかりの珊瑚のように、わずかにオレンジのきらめきを秘めている。

 夕暮れの空がかすかに残すあたたかな残り香のような、あるいはまだ幼い花びらがそっと開こうとはにかんだような──決して枯れることのない生命の色。

 

 本当はもう、自分の中に答えはあったのだ。

 そう、彼女はすでに選んでいた。ただそのことに、気が付けなかっただけで。

 

 その事実に、アリシアは息を呑んだ。そして、同時に胸を撫で下ろすような、深い安堵が広がった。

 なぜ今まで、この答えを知らなかったのだろう──。

 

「……ありました」

 

 その声は、感動に打ち震えているようだった。

 

「私、自分のために……選んだ色が、ありました」

 

 けれど、アリシアはまだ少しだけ視線を伏せ、不安そうに口を開く。

 

「でも……その色を、身に纏ったことがなくて。私に似合うのかどうか、不安で……」

 

 アリシアの声は、どこか怯えるように小さかった。

 そんな彼女のためらいを、ラルフはすぐに否定しなかった。

 一拍の間、真剣なまなざしで彼女を見つめ、それからゆっくりと頷く。

 

「大丈夫ですよ。あの刺繍糸を見つめるお嬢様の瞳は、とても輝いていました。その光を……今も覚えています」

 

 言葉にすることで、彼は自らもそれを確かめているようだった。

 彼女の見せた一瞬のまばゆさを、胸の中でそっと大事にしている。

 

 そして一歩、アリシアに近づくわけでも、押しつけるでもなく──ただ距離も声もそのままに、言葉だけがそっと彼女に触れる。

 

「好きなものを身に纏う方が、いちばん美しい。そう思います」

 

 その声はやわらかく、けれど確かな力を持っていた。

 やさしく背中を押すような──そんなあたたかさだった。

 

 顔をあげると、ラルフの誠実なまなざしと交わる。

 そして、己の中の恐れが消えていくのがわかった。

 

「……私、決めました」


 その声は、もう揺らいではいなかった。

 

 

 こうして、彼女のドレスはようやく、たったひとつの色を得た。

 それは誰かのためではなく、自分の心のために選んだ、初めての色──未来へと続く、新しい自分を彩る希望の輝きだった。

 

 

 

 

長くなってしまったのですが削るに削れませんでした……。

 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
   
✿⋰ ご感想・リクエスト等お待ちしています ⋱✿
Wavebox
   
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ