8-3.贈る手と選ぶ心(下)
午後の陽がやわらかく差し込み、そよ風が薄絹のカーテンを揺らす。
侯爵家のサロンは昼下がりのおだやかさに包まれながらも、どこかそわそわとした気配を帯びていた。
窓辺のテーブルには、ティーセットと今朝焼かれたばかりのビスケット。
湯気のたつカップを挟んで、アリシアとセシルが向かい合っている。
ティーテーブルに頬杖をつきながら、セシルが身を乗り出した。
「アリシアお姉様は、どんなドレスになさいますの? やはり王都で流行りのパウダーブルーでしょうか。それとも、お姉様の髪の色に合うシャンパンゴールド?」
彼女の瞳はきらきらと輝き、声が弾んでいる。
「まだ……決めかねているの」
しかし、対照的にアリシアの声は静かだった。
アリシアがそっとカップを置くと、セシルは「まあ!」と小さく声をあげた。
「お姉様が、そんなにご決断に迷われているなんて。でも、どんなお色でもお姉様はお似合いになりますわ!」
すぐに笑みを浮かべ、セシルは体を揺らして椅子にもたれた。
そのあと、自分の予定を嬉しそうに語り始める。くるくると表情が変わっていく様子は、見ているだけで心が和んだ。
セシルが選んだのは、ペールグリーン。
初夏の若葉を想起させるその色は、子どものころから大好きだったという。
「だからお姉様も、ご自分のお好きな色を選ばれるのがよいかと思います!」
頰を紅潮させながら語るその姿は、まるで花のつぼみがふくらむように幸せそうだった。
(私の……好きな色)
その言葉に、アリシアはふと胸の奥を覗きこむような気持ちになった。
これまでの人生、自分の好きな色をじっくり考えたことがあっただろうか。
──前の人生では、ドレスの色はいつも青だった。
第一王子であるエドワードが好んだ色。彼の隣に立つ者として「似合う」と言われた色。
もはや遠い過去の、十五歳のデビュタントもそうだった。婚約を発表したあと、彼の腕を取り、青のドレスに身を包んだ。
けれど今は──十七歳になった今年、アリシアは父のエスコートでデビュタントを迎える予定だ。
何もかもが違っている。人生そのものが、すでに変わってしまっているのだ。
だから、ドレスの色も好きに選んでいいはずだった。
過去の延長ではない、自分のためだけの一着。
それなのに──アリシアはまだ、決められずにいた。
ドレスデザインの選定はすでに終わっている。採寸も仮縫いも済み、あとは本縫いを待つばかり。
だが、布地がまだ決まらない。そこに色がなければ、ドレスは形を成さない。
しかしどれだけ考えても、何を選べばいいのかわからなかった。
答えの出ないまま夕暮れが訪れ、日が落ちる頃には──その想いをそのまま引きずるように、アリシアはひとり、自室の机に向かっていた。
灯りを落とした部屋の中で、蝋燭のゆらめく炎が、机上に広げられた布見本の色を静かに揺らしている。
どれも選び抜かれた上質な布地。光沢感のある手触りもよいそれらは、王都の最新流行を取り入れた申し分ないものばかりだった。
それでも──アリシアの心は、どの色にも動かなかった。
(……私が、ほんとうに好きな色って、なんだろう)
ふと、視線を上げる。
窓の外には夜の帳が降りていて、遠く星の瞬きがひとつだけ見えていた。
思い浮かんでくるのは、心に残っているささやかな日々のかけらの景色たち。
春に庭で綻ぶの花。夏の高く広がる澄んだ空。秋に実った果実のつややかさ。冬の食卓に灯る、家族の笑顔と料理。
そして──朝焼けの色。
夜を越えて、また朝がやってくると教えてくれる、あのあたたかくやわらかな光の色。
ふと胸に浮かんだその一色に、心がゆるりと波立つのを感じた。
(そうだわ)
ゆっくりと立ち上がり、寝台脇の棚に置かれた刺繍箱を取り出す。
長年使い込まれた箱の留め金を外し、蓋をそっと開けると、色とりどりの刺繍糸が並んでいた。
その中に──燦然と存在を主張する一本の糸がある。
既製品には見つからなかったその色を、新たに作って届けてくれた──世界にただひとつの、光の角度によって金色にも桃にも見える糸。
(私は……この色が、好きだと思う)
小さな確信が生まれた。
そっとその束を取り上げると、指先にふわりと温もりが移ったような気がした。
アリシアはようやく机を離れ、静かに燭台の火を吹き消した。
翌朝──。
アリシアは小さな決意を胸に、レティシアの部屋を訪れた。
朝の光の中、母はちょうど花瓶の手入れをしているところだった。
その手付きは丁寧で、指先には年輪のように積み重ねられた優雅な習慣が滲んでいる。
「お母様……」
おずおずと声をかけると、レティシアは振り返り、目を細めた。
「あら、アリシア。こんな朝早くからどうしたの?」
「あの……ドレスの件なのですが。金糸で装飾をする予定だったでしょう? それを……ハンカチに使った刺繍糸でできないかと思って」
アリシアの言葉に、レティシアはゆるやかに微笑んだ。
「まあ、あの糸ね。素敵だと思うわ。きっとあの色なら、上品さも可憐さも兼ね備えられるはずよ。それで、布地の色は決まったの?」
「いいえ、まだ……」
「そう……。でも、焦らなくて大丈夫よ。じっくり考えて、自分がいちばん心地よくいられる色を選びなさいな」
その言葉は、揺るぎない信頼に満ちていた。
アリシアは小さく頷く。
自分のために色を選ぶという行為が、こんなにも難しく、そしてあたたかいものだったのだと、今になって初めて知った気がした。
「刺繍の依頼は、私から正式にお願いしておきましょうか? それとも、あなたから直接ラルフくんに?」
さりげない問いかけに、アリシアはわずかに目を伏せた。
迷いの影が過ぎるのは一瞬だけ。やがて彼女はゆっくりと首を振った。
「……私から、お願いしたいです」
それはただの礼儀ではない。
彼の手を信じ、あの糸を通して自分の想いを託すという選択だった。
*
そしてアリシアはウォード商会に書簡を送り、ラルフを屋敷へ呼び寄せていた。
用件はひとつだけ。けれど、どうしても自分の口から伝えたかったのだ。
数日後。ノックの音が、静かな部屋に響いた。
「お嬢様。ウォード商会のラルフ様がいらしています」
告げる声に、アリシアは顔を上げた。
机の上には、刺繍糸の束──金にも桃にも見える、あの色がある。
(……ちゃんと伝えなくちゃ)
言葉を選びながら立ち上がり、胸元でそっと両手を組んで息を整える。鼓動が、少しだけ早い。
応接間の扉を通ると、彼はそこにいた。
いつ見ても変わらない、おだやかな姿。
アリシアの入室に気がつくと立ち上がり、丁寧な礼を見せてくれる。
「ラルフさん。お忙しいところ、お時間をいただいてすみません」
「いえ、とんでもありません。お嬢様のお役に立てるなら、いつでも」
ラルフは、いつものやわらかい笑みで首を振った。
その言葉は、どこまでも自然で嘘のない響きを持っていた。
だからこそ、アリシアは困ってしまう。しかし小さく息を吸い込んで、本題に入ることにした。
着席を促し、己も彼の向かい側に腰を下ろす。
使用人たちが静かに紅茶と菓子を用意した。
「以前、お願いした刺繍糸……あの糸が、本当に綺麗で。もし可能なら、あの色を、ドレスの刺繍にも使えたらと思って……。デビュタント用の、大切な一着なのです」
彼女の言葉を受けて、ラルフは一瞬だけ目を見開く。しかしすぐにおだやかな笑みを浮かべ、頷いた。
「承りました。光栄に思います、お嬢様。専門の職人も手配いたしましょうか?」
ラルフのその目が、まっすぐにこちらを見つめている。
気取らないながらも、真摯なまなざしだ。
「はい、お願いします。でも……」
だからなのか──アリシアの声音は、ふと曇りを見せてしまった。
「まだ、ドレスの色がまだ決まらなくて」
そしてその先の言葉も、こぼれ落ちる。
言ったあとで、アリシアは戸惑いを覚えた。
どうしてそんなことを口にしてしまったのだろう。
わざわざこの場で打ち明けるような話ではなかったのに──。
しかしラルフは、そんな彼女の気持ちの揺れを責めることなく、ただ静かに応じた。
わずかに眉を上げたものの、驚きを咎めるでもなく、焦りもせず問う。
「お望みの色が、見つからないのですか?」
「いえ……そうではなく。わからないんです。私が望んでいる色が、どんなものなのか……」
そのやさしい声に導かれるように、ついにはセシルにも、母にも告げたことのない迷いが顔を出した。
「……今まで、そういうふうに考えたことがなくて」
その言葉には、過去の影があった。
自分の好みではなく、誰かの期待に応えることが、いつだって最優先だった。
青を選んだのも、王子の隣に立つ者として「似合う」と言われたから。
それが当然だと思っていた。むしろ、それ以外の選択肢があるとさえ考えていなかった。
今はもう、違うはずなのに──好きな色を問われると、答えが出せない。
それがひどく情けないような、悲しいような気持ちになっていた。
俯いてしまったアリシアを前に、ラルフは静かに考え込むように目を伏せ、やがて再びそっと問いかけた。
「つい手に取ってしまう色や、目を引く色。心がふっと惹かれる色……何か、ありませんか?」
急かすのではなく、寄り添ってくれるような言葉だった。
「ゆっくりで構いません。思い返してみてください」
アリシアは言われた通りに、今までのことを思案する。
やがて、はっとしたように目を見開いた。
思い浮かんだのは──自分に選んだ、ハンカチの色。
淡い光が差し込む窓辺のような、どこかあたたかいコーラルピンク。
それは、ありふれたピンクとは少し違う。海深くから引き上げられたばかりの珊瑚のように、わずかにオレンジのきらめきを秘めている。
夕暮れの空がかすかに残すあたたかな残り香のような、あるいはまだ幼い花びらがそっと開こうとはにかんだような──決して枯れることのない生命の色。
本当はもう、自分の中に答えはあったのだ。
そう、彼女はすでに選んでいた。ただそのことに、気が付けなかっただけで。
その事実に、アリシアは息を呑んだ。そして、同時に胸を撫で下ろすような、深い安堵が広がった。
なぜ今まで、この答えを知らなかったのだろう──。
「……ありました」
その声は、感動に打ち震えているようだった。
「私、自分のために……選んだ色が、ありました」
けれど、アリシアはまだ少しだけ視線を伏せ、不安そうに口を開く。
「でも……その色を、身に纏ったことがなくて。私に似合うのかどうか、不安で……」
アリシアの声は、どこか怯えるように小さかった。
そんな彼女のためらいを、ラルフはすぐに否定しなかった。
一拍の間、真剣なまなざしで彼女を見つめ、それからゆっくりと頷く。
「大丈夫ですよ。あの刺繍糸を見つめるお嬢様の瞳は、とても輝いていました。その光を……今も覚えています」
言葉にすることで、彼は自らもそれを確かめているようだった。
彼女の見せた一瞬のまばゆさを、胸の中でそっと大事にしている。
そして一歩、アリシアに近づくわけでも、押しつけるでもなく──ただ距離も声もそのままに、言葉だけがそっと彼女に触れる。
「好きなものを身に纏う方が、いちばん美しい。そう思います」
その声はやわらかく、けれど確かな力を持っていた。
やさしく背中を押すような──そんなあたたかさだった。
顔をあげると、ラルフの誠実なまなざしと交わる。
そして、己の中の恐れが消えていくのがわかった。
「……私、決めました」
その声は、もう揺らいではいなかった。
こうして、彼女のドレスはようやく、たったひとつの色を得た。
それは誰かのためではなく、自分の心のために選んだ、初めての色──未来へと続く、新しい自分を彩る希望の輝きだった。
長くなってしまったのですが削るに削れませんでした……。




