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7-2.ひとつずつ、紡いで(中)

 

 

 セシルとともにレッスンを受ける日々は、忙しくも充実していた。

 ふたりは多くのことを学び合いながら、ゆっくりと季節を歩いてゆく。

 

 そして一日の終わりには決まって、ふたりだけの刺繍の時間が待っていた。

 応接間の窓辺に並んで座り、糸と針を手に静かに過ごすひととき──それは、日々の繰り返しのなかにそっと息づく、ささやかな習慣だった。

 

 この日も暮れかけた陽がカーテン越しに差し込むなか、ふたりは肩を並べて布に向かっていた。

 

 セシルは細かな模様に苦戦しているらしく、細い針を握りしめながら何度もため息をつく。刺そうとしていたのは、繊細な花。けれど、どうしても思うように形にならず、糸はあちこちで浮き上がってしまっていた。

 

「うぅ……お姉様のように、こんなに細い糸を美しく刺すなんて、私にはとてもできませんわ……」

 

 しょげた声に、アリシアはそっと微笑み、隣に身を寄せるようにしてセシルの手元を覗き込んだ。

 無理に指摘するのではなく、やわらかな声音で、そっと言葉を紡ぐ。

 

「もう少し、この糸を寝かせるように刺すといいわ。布の目にそっと馴染ませるように、ゆっくりとね」

 

 そう言いながら、アリシアは自分の布で手本を示した。

 言葉とともに手本を見せるように動かすと、セシルもすぐに真似をした。次のひと針は、確かに布地にすっと寄り添い、美しく落ち着いた。

 

「本当ですわ! お姉様、どうしてそんなことがおわかりになるのですか? やっぱり、さすがアリシアお姉様です!」

 

 ぱっと明るく笑いながら、セシルはきらきらと目を輝かせた。

 アリシアは、こそばゆそうに首を振り、小さく笑う。

 

 前の人生で身につけた技術が、こんなふうに誰かの役に立つとは思わなかった。

 けれど教えるという行為は、思っていた以上にあたたかいものだった。

 誰かに寄り添い、伝えること。それを受け取ってくれる人がいて、笑顔が返ってくるということ。誰かの成長を間近で見守る喜び。

 それはアリシアがはじめて知る、新しい幸福のかたちだった。

 

 

 ひととおり刺し終わったアリシアは、膝の上の布をそっと眺めながら、針を置いた。

 

(そろそろ……始めてみようかしら)

 

 この刺繍の時間を借りて、アリシアには成し遂げたいひとつ密かな計画があった。

 それは、もうすぐ訪れるデビュタントという晴れの舞台に向けて──これまで支えてくれた家族への感謝と、新たな一歩を踏み出す自分自身への誓いを込めた、贈り物を渡したいというものだった。

 

 レイモンド家の家紋を刺繍したハンカチを、父と母、そして弟の三人に。

 もちろん自分自身の分も揃えて、きちんと四枚。

 

 ──けれど、なかなか手がつけられずにいた。

 手元に広げた刺繍糸の束を見つめ、アリシアは小さくため息をつく。

 

 その音に、隣で刺繍していたセシルが針を止めて身を乗り出した。

 

「どうなさったの、お姉様? 何かお困りごと?」

 

 アリシアは苦笑しながら、刺繍糸の束をひとつ持ち上げて見せる。

 

「実は……特別な贈り物を作りたいのだけれど。探している色が、どうしても見つからないの」

「そんなに珍しい色なのですか?」

 

 セシルのその言葉に、アリシアはゆっくりと頷いた。

 

 レイモンド侯爵家の象徴色は、威厳と伝統を表す金。

 式典や祝宴の場では、衣服や飾りに必ずといっていいほど金糸が用いられる。それは名家の誇りを映す色でもあった。

 

 けれどアリシアが求めているのは、単なる金色ではなかった。

 彼女の胸にあるのは、朝の陽が差しはじめた空に、一瞬だけ宿る幻のような色──やわらかな金に、ほんのわずかに桃色が混じったような、明け方の空の光。

 

 新しい一日の始まりを告げるその色は、今の彼女にとって、再生と希望の色だった。

 かつての傷を抱きしめ、それでも立ち上がろうとする者の背を押すような色。

 

 だが、その繊細な色合いは、王都のどの刺繍店を訪ねても見つけることができなかった。

 

「それでしたら、出入りの商人にお願いしてみてはいかが? お姉様のことですから、きっと信頼できる方をご存じでしょう?」

 

 セシルは目を輝かせながら、にこりと笑った。

 そんな彼女の無邪気な提案に、アリシアははっとした。

 

 商人──信頼できる人物──。

 すぐに思い浮かんだのは、ラルフだった。

 

 もともと屋敷との取引は、商会長である彼の父が取り仕切っていたが、近ごろではラルフもその一部を任されるようになってきた。

 まだ二十歳と若輩ながら、納品の確認や小さな交渉を担いつつ、着実に経験を積んでいる。

 アーサーが彼に懐いていることには変わりなく、遊び相手として招かれることもしばしばだった。

 幼い弟にとって、ラルフは一緒に遊んでくれる大人というより、頼れる兄のような存在になっているのかもしれない。

 

 屋敷の者たちからも、彼はずいぶんと重宝されていた。

 

 庭師グレゴリーの脚立が壊れたときには、自分の持っていた道具でささっと直して帰ったと聞くし、副料理長のハロルドが珍しい調理器具を探していれば、地方から取り寄せてくれたこともある。

 

 そして──あのマダム・デボラまでもが。

 格式と秩序を何より重んじる彼女は、使用人たちがラルフに何かと頼りすぎることを、当初あまり快く思っていなかったらしい。

 だがある日の庭での茶会の準備中、装飾品の一部が足りないとわかったとき。

 ラルフは即座に代用品を提案し、全体の調和を崩さぬよう控えめに整えてみせた。

 後日、「見どころのある子ですね」と彼のことを評していたと聞く。

 

 ラルフは、目立とうとしない。ただ、誰よりもよく見て、気づいたときには手を差し伸べている。

 だからこそ、気づけば人々は、自然と彼を頼りにするようになっていた。

 

(もしかして──ラルフさんなら……)

 

 アリシアは希望を胸に、ラルフへの依頼を決意した。

 

 

 

 

 アリシアは翌日、ちょうど納品のために侯爵邸を訪れていたラルフの姿を見つけると、少し勇気を出して声をかけた。

 

「ラルフさん、少しよろしいかしら」

 

 名を呼ばれたラルフは、驚いたように目を瞬かせたが、すぐにおだやかな微笑みを浮かべて、アリシアの方へと歩み寄ってくる。

 

「お嬢様。どうかされましたか?」

 

 その姿を、アリシアはどこか新鮮な思いで見つめた。

 見慣れたその姿は、かつてと比べてずいぶんと大人びていた。

 出会ったころは十七歳だったラルフも、今では二十歳。以前よりも背が伸び、肩の線もしっかりとしているし、声には落ち着いた響きが宿っている。

 

 けれど、変わらないものもあった。

 貴族とは趣を異にするその佇まいは、無理のない礼儀と、飾り気のない物腰を湛えていて、どこか洗練されている。

 年を重ねて凛々しさを増した彼の姿は、以前よりもずっと頼もしく映った。

 

 アリシアは少しだけ言葉を探すように視線を落としたが、やがて思い切って口を開いた。

 

「……実は、デビュタントの準備の合間に、家族への贈り物を用意していて。そのための刺繍に、どうしても必要な糸があるのです」

 

 アリシアは、息を整えながら、自分が探し求めている色について語った。

 大切な人々への想い。そして、これから始まる自分の歩みに込めた願いを。

 

 少し熱を帯びた声音で語る彼女の言葉を、ラルフはひとつも遮ることなく、真剣なまなざしで耳を傾けた。

 そしてアリシアが説明を終えると、少しだけ考える素振りを見せてから、慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

  

「なるほど……つまりは、光を含んだときにわずかに表情を変えるような、非常に繊細な色合いをお求めなのですね」

「はい……まさに、その通りです」

 

 彼女が小さく頷くと、ラルフはふっと笑みを浮かべた。

 

「承知いたしました。お任せください。必ず、お嬢様のご期待に沿える糸をご用意いたします」

 

 それは、冗談めいた軽さとは無縁だった。

 その言葉には確かな自信があった。けれど、それは誇示するようなものではなく、積み重ねてきた経験から滲み出る、誠実な確信だった。

 

 

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