7-1.ひとつずつ、紡いで(上)
それから時は流れ、アリシアは十三歳から十六歳になった。
季節は芽吹きの匂いがかすかに風に乗る、早春の頃。
誕生日当日の朝にあったのは、変わらぬ家族の声と、あたたかい贈り物。そして少しだけ、特別な食卓。
少しずつ変わりながらも重ねられていく、ささやかな祝いの一日だ。
それがどれほど幸せなものかを、アリシアは知っていた。
過去の人生では気づけなかった当たり前の愛情を、今ではひとつひとつ、大切に抱きしめることができる。
だが、今年はおだやかな景色とは裏腹に、アリシアの心にはかすかな緊張と期待があった。
一年後に控えたデビュタント──社交界への正式な第一歩に向けて、準備を始めることになっているからだ。
本来ならば、貴族令嬢のデビュタントは十五歳か十六歳で迎えるのが慣例である。
けれどアリシアのそれは、侯爵夫妻の判断によってあえて遅らせられていた。
なぜなら、婚約を断ったエドワード第一王子がアリシアと同い年であるからだった。
社交界に立てば、あの王子の目に留まる可能性がある。
一年、また一年と時間を稼ぎ、王子が別の婚約者を選ぶことを願って──それは、可能な限り彼との接触を避けるための、親としての苦渋でありながらも深い愛ゆえの決断だった。
貴族社会では年齢相応に登壇しない娘は事情があると見なされ、好奇の目にさらされる可能性がある。
それでも夫妻は延期を選び、そしてアリシアもまた両親を信頼しているからこそ、その意図を理解していた。
この延期は紛れもなく、愛娘の未来を守るためだった。
*
それからデビュタントの準備が本格的に始まっていった。
朝はマナー教師による指導がから始まる。姿勢、歩き方、座り方、挨拶の仕方──貴族令嬢としての所作を一から叩き込むための厳しい稽古だ。
けれどアリシアは、そのすべてをすでに知っていた。教わらずとも、頭の中に正しい型が思い浮かぶ。
しかし、実際に動いてみると──どうにも違和感がある。
腕の角度、足の運び。それらが思うように決まらない。記憶にある姿と、実際の自分とがかすかにずれていた。
(そうよね。この体では、はじめての動きもあるもの)
前世で何度も繰り返した動作。それを覚えている自分の意識と、今の体との齟齬。
それでもアリシアは苛立たない。むしろ、そのわずかな不自由さを、どこか愛おしくさえ思っていた。
「焦らず、丁寧に、繰り返しましょう」
そう口にする教師の声に頷きながら、アリシアは小さく息を整えた。
午後のダンスレッスンでも、それは同じだった。
音楽が流れると、心はすぐに動き出す。ステップのひとつひとつ、舞踏の構成はすべて覚えている。
それでもやはり、体がついてこない。一拍遅れてしまい、軸がぶれる。
(このくらい、できていたはずなのに……)
けれどそのできなささえも、今は新鮮だった。
繰り返すうちに、今の自分の体が少しずつ馴染んでくる感覚がある。
それは新しい人生に自分をひとつずつ馴染ませていくような、そんな時間だった。
前の人生では義務だった舞踏が、いまは自由の象徴のように感じられる。
軽やかにステップを踏むたび、床の木目さえ違って見える気がした。
書斎では、教養としての文学や歴史を復習していくと、また新たな視点が見えてくることに気がついた。
一度は通り過ぎたはずの物語や逸話が、まるで新しいもののように、彼女の心に触れてくる。
(ここの記述、別の解釈の仕方もあるのね……)
──今度は、誰かの評価のためではない。ただ、自分のために学んでいる。
正しくあろうとするのではなく、自分であろうとするための学び。
だからこそ、楽しかった。
*
そんな多忙な日々の中、新しい風が吹き込んだ。
ひとりの令嬢が侯爵家に滞在することになったのである。
その名はセシル・グレイン──アリシアより二歳年下の十四歳になるグレイン子爵家の娘で、レイモンド侯爵家とは遠縁にあたる。
彼女の母親がレティシア夫人と長年の親交を結んでいることから、今回セシルのデビュタントにあたり、実母の代わりにレティシアがシャペロンを務めることとなった。
そのためセシルは遠方の領地から王都にあるこの屋敷へとやってくることになったのだ。
つまりはアリシアとともに、彼女はここでデビュタントへの準備を整えていくことになる。
到着の日。セシルはやって来るなり、華やかに広がるスカートの裾をひるがえし、挨拶もそこそこに笑顔でアリシアに駆け寄った。
「アリシアお姉様! お会いできて光栄ですわ! お噂はかねがね……誰よりも美しくて、お優しい方だと!」
唐突な賞賛に、アリシアは目を瞬かせ、困ったように笑みを浮かべた。
「……あの、ありがとう。けれど、噂というのは、たいてい誇張されているものよ」
そう告げると、セシルはぱちくりと瞬きをしてから、きっぱりと告げた。
「誇張でも構いませんわ! だって今日からは、実際に目で見て、心で感じて、ほんとうのお姉様を知ることができますもの!」
「……そう。なら、幻滅されないように努めなければならないわね」
「まあ! それはもう絶対にありませんから、ご安心を!」
屈託のない、まっすぐなまなざしだった。
その熱を前にして、アリシアはふいに言葉を失い、少しだけ視線を落とす。
懸命に手を伸ばそうとする少女の想いが、やわらかに胸に触れる。
「セシルさん、こちらへ。お部屋を案内するわ」
「嬉しいですわ、お姉様! ご一緒できるなんて夢のよう!」
ころころと笑いながら隣を歩くセシルの横顔に、アリシアはそっと微笑を深めた。
セシルは本当にアリシアのすることなすことすべてを、惜しみなく褒め讃えた。
マナーのレッスンで、アリシアがわずかに姿勢を正せば──
「お姉様がすっと立つだけで、その場が清らかになるようですわ! 私もいつか、お姉様のように美しく歩けるようになりたいです!」
ダンスの練習で、アリシアが新しいステップを披露すれば──
「お姉様はなんて優雅なのでしょう! 先生の動きも素晴らしいですけれど、お姉様のしなやかさには、ずっと見惚れてしまいますわ!」
書斎で難解な歴史書を読んでいるときでさえ──
「お姉様が本をお読みになる姿は、本当に絵になりますわ! お姉様と一緒だと、どんな勉強も楽しく感じられます!」
そのひとつひとつの言葉は、時に少しばかり大げさに響くこともあった。
けれど、曇りのないまなざしがそこに添えば、不思議とどれもが真実味を帯びて届いてくる。
まっすぐに、惜しまずに、尊敬を捧げてくる少女。
そのまっさらな瞳を前にすると、アリシアはどうにも調子が狂ってしまう。
けれどセシルといると、身の引き締まる日々のなかにもあたたかな気持ちが差し込んでくる。
くすぐったくて、けれど、嬉しい。
こうしてデビュタントの準備に追われる毎日が、色づいていった。