6-3.冬の訪れを越えて(下)
翌朝。
すっかり空は晴れ渡っていたが、辺りは白く染まり切ったままだった。
雪は、思い出の風景だった。
けれどそれは、ただの過去ではない。ひとつの季節がひとりの名を呼ぶように、その存在はアリシアの胸に降り積もってくる。
エドワード・フォン・グラティア──かつての人生で、婚約者であった人。
彼の銀色の髪は、舞い落ちる雪の結晶のようでありながら、それが陽に溶ける一瞬のきらめきにも似ていた。彼の青い瞳は、凍てついた湖面のように静謐で深い色をしていた。
エドワードは冬の凍てつく空気を纏い、どこか近寄りがたい完璧さを湛えていた。
それが自分に気がついてひととき綻んでくれるのが、アリシアにとって何よりの幸福だった。
できればそれをいちばん近くで、永久に眺めていたいと願った。エドワードに誰よりも深く、触れていたかった。
アリシアは、あの日のことを思い出す。
それは婚約者として過ごした思い出の中でも、とりわけ鮮烈なものだった。
北の地の視察に向かったときに、突然の吹雪に見舞われ、閉じ込められてしまった一日。ふたりで寄り添って言葉を交わした夜。
(私が命を絶った日も、雪が降っていた……)
真白な死の帳。そのなかで、彼だけが生きていた。
エドワードだけがアリシアのすべてだった。彼の愛以外、何も見えていなかった。
自分を想ってくれる者が、こんなにも多くいたことを、知ろうともしなかった。
家族も、使用人も、領地の人々さえも──あの頃のアリシアには、ただ遠く、ただ薄く、何も届かなかった。
けれど、いまは。
エドワードがいないこの朝を、こうして生きている。
雪に埋もれた屋敷の窓辺に、静かに立っている。
『たとえ世界が滅んでもあなたと一緒ならそれでいい』──なんて、もう思えない。
ひとつの命とひとつの世界が重ならなくても続いていけることを、知ってしまった。
その事実がかつてエドワードへ永遠の愛を誓った己の心を締め付けるようで、哀しくて、苦しくて、胸を裂いた。
昨夜眠れなかったのは──その痛みが、夢の中まで追いかけてきたせいだ。
そんな冷たい哀しみを、ふいにあたたかい声が打ち破った。
「ゆきーっ!」
明けきったばかりの冬空の下、ひときわ高く、無垢な歓声が舞い上がる。
窓の向こうでは、アーサーが真っ白な庭へと真っ先に駆け出していた。
ふわふわの外套に身を包み、小さな長靴で新雪を跳ね飛ばしながら、空に向かって手を伸ばしている。
指先に届かぬ結晶を追って、まるで雪の精そのもののようだった。
その傍らにはラルフがいた。
やわらかな陽光に照らされて、彼の影は長く、雪の上に静かに落ちていた。
アーサーの無邪気さを見守るその瞳は至極やさしい。
転びかけると彼はさりげなく手を差し伸べ、そのたびにアーサーはけらけらと笑った。
アリシアは、いつのまにか頬に触れていた自分の指をそっと下ろし、静かに窓を押し開けた。
冬の空気が、遠い記憶を洗うように胸にしみた。
そして、扉を抜けて、庭へと出る。
足もとの雪がかすかに鳴く。ひとつ、またひとつと踏みしめるたびに、世界が少しずつ現在へ近づいてくるようだった。
「ねえさまーっ!」
アーサーが気づいて、嬉しそうにこちらへ駆けてきた。
まるで雪を巻き込むようにして跳ねるその姿に、アリシアの唇は自然とほどける。
「おはよう、アーサー。寒くないの?」
「さむいけど、たのしいー!」
「ふふ、そう。お鼻が真っ赤よ」
アリシアがしゃがみ込んで彼の顔を覗きこむと、アーサーは小さな手を雪の上ですくって差し出した。
その手のひらの上には、わずかながら溶けかけの雪の粒が乗っていた。
「みて! ゆき、つかまえた!」
「まあ……ほんとう。きれいね」
アリシアはその白いひとかけらにそっと触れ、すぐに消えていく冷たさに、くすぐったいような愛しさを覚えた。
すぐ傍に立っていたラルフが、控えめに微笑んで言った。
「おはようございます、お嬢様」
「ええ。おはようございます」
アリシアはそう言って、自分でも驚くほど自然に、ラルフへ微笑みを返した。
それはごく当たり前の言葉だった。
けれど、まっさらな朝に交わされる挨拶は、まるで新しい約束のように透き通っていた。
「皆、体が冷えてしまいますよ。ほら、温かいココアを淹れてきたから」
レティシアのやさしい声が聞こえた。心配そうに眉を下げながらも、やわらかな笑みを浮かべている。
細い湯気が、マグの縁からふわりと立ちのぼる。そこにあるのは三つの器──娘のために、幼子のために、そして、客人のために。
「ありがとう、お母様」
アリシアは温かいココアを受け取った。カップから立ち上る甘い香りが、冬の冷たさをやさしく打ち消していく。
その温かさが、指先からゆっくりと体全体に広がり、心を解き放つようだった。
母は、アリシアが人々と積極的に交流するようになってから、さらに表情がやわらかくなっていった。今は心から娘の幸福を願う母の顔を、いつでも見せてくれる。
(私は、もうあの孤独な冬の中にいない)
指先には熱が宿り、隣には声がある。名を呼び、笑い、ぬくもりを分かち合う人々がいる。
アーサーが楽しげに雪だるまを作ろうと玉を転がしている。ラルフがそっと後ろから手を添え、その手順を教えてやっていた。
ふたりの呼吸と笑い声が、やわらかく交わっている。
侍女たちが微笑み、屋敷の者たちも窓の向こうからその光景に目を細めていた。
皆が、同じぬくもりの時間を、そっと見守っている。
それはもちろん──彼も例外ではない。
その様子を、執務室の窓からじっと見つめている男がいた。オスカーである。
彼は書類の山を前にしていたはずだが、今は完全に手元のペンを止め、窓に釘付けになっている。
ちらりとこちらを伺い、視線が合うと、わずかに眉を寄せ、慌てて書類に目を落とした。まるで「別に見てなどいない」と言わんばかりの態度だが、その耳の先がわずかに赤らんでいるのを、アリシアは見逃さなかった。
そのとき、執務室の扉が控えめに叩かれた。
「──失礼いたします、侯爵様」
姿を現したのは、老執事クラレンス。背筋を正したその影は、無言のまま書斎を一瞥し、すぐに窓の向こうへと目を向けた。
硝子越しの白に染まる庭では、少年が雪を蹴り、笑い声が弾んでいる。その傍らには若き客人の姿──そして、娘と妻が並んでいる。
クラレンスは侯爵へやさしく、しかしどこか確信を持った声音で問うた。
「侯爵様も、あちらへ行かれてはいかがでしょう。皆さま、雪ではしゃいでいらっしゃいますよ」
わずかの間、沈黙。
そのなかで、オスカーは何かを咀嚼するように目を伏せ、「……む」と、低くうめいた。
「なに、私は執務中だ。それに……こんな寒空の下で、子どもたちと遊んで風邪でも引いたら目も当てられん」
言いながら、書類に手を伸ばすが──その指先は、どこか所在なげだった。
窓辺の陽に透ける赤くなった耳朶がひどく饒舌であることに、彼自身は気づかない。
クラレンスは椅子の背にそっと外套を掛けた。
「先ほど奥様が、追加のココアを頼まれたようですよ。……侯爵様の分の」
オスカーはしばし外套と書類と窓外の景色を交互に見つめ、ついには観念したように大きな息をついた。
「……わかった。少しだけ、顔を出すだけだぞ」
そして、不器用な手つきで外套を羽織ると、再び窓の外の家族の輪に視線を戻した。その口元には、知らず知らずのうちに、かすかな笑みが浮かんでいるようだった。
アリシアは、手の中のマグカップをそっと傾けた。
湯気の奥に、ふわりとした甘さが香る。口に含めばやさしさが舌に広がり、やがて胸の奥まで沁み渡ってゆく。
──家族の団欒。
今まで、それは自分には縁のないものだとどこかで諦めていた。
だがこのあたたかな空間に、父もまた、入りたがってくれている。そしてそれを促してくれる、信頼できる人たちがいる。
雪の記憶。あの日の冷たさも、銀の髪も、氷の瞳も、もう遠い。
そのすべてはもう、過去の残像に過ぎないのだ。
*
──春のはじめ。
私は運命をひとつ、選びなおした。
かつての私は、常に他者の評価の上に成り立っていた。
侯爵令嬢として完璧か。王太子妃としてふさわしいか。エドワード様に愛されているか。
その評価が、私の幸福の基準だった。
それだけが、生きるということだと思っていたから。
けれど、あの日。
王子との婚約を断る決意をしたとき、私ははじめて、自分という存在に触れた。
だがそれは、本来なら与えられるはずのなかった“もう一度”だった。
私には知っている未来があった。終わってしまったはずの人生が、今こうして続いている。
誰にも気づかれず、ただ私だけが、二度目の時を生きている。
そんな奇跡を与えられたことに、ふと、怖くなる瞬間がある。
本当にこれでよかったのか、私がこの幸せを手にしてしまっていいのか──誰にも告げられない罪悪感が、胸の底にじっと横たわっている。
それでも私の内側で、何かが変わりはじめている。
それはきっと、自分の足で選び取った日々が、私のなかに根を張ってくれたから。
学びたいことがある。
知りたい世界がある。
出会いたい人々がいて、語り合いたい夢がある。
風の匂いが変わるたびに、胸がときめく。
──いま、確かに私は生きている。
この人生を、自分の足で、歩いている。
使用人の労をねぎらうこと。土に触れ、命を育むこと。家族と無邪気に笑い合うこと。自分の手で何かを生み出し、その過程と結果を純粋に楽しむこと。
そして、今までならば交わることのなかった人々とも、心を繋ぐこと。
小さな、ありふれた日々の中に、これまで見過ごしてきた確かな輝きがあった。それは、宝石のようなまばゆさではない。
けれど、手で触れられるあたたかさがあり、心にじんわりと染み渡るような、おだやかな幸福だった。
“永遠”とは、記憶の中で凍りつく幻想ではない。
この日々のなか、あたたかく積み重なっていくものなのだ。
だから私は、そんな日々の豊かな手ざわりを──この手で触れられる幸せを、もう決して見逃したくはない。
たとえゆっくりでもいい。この足で、これからも歩いていきたい。
この世界には、まだ出会っていない喜びが、きっとたくさんあるだろうから。
私の心は、きっとまだ痛むことがあろうとも。以前のように凍てつくことは、もうないだろう。
人々が灯してくれたぬくもりが、確かに胸の奥で燃えていた。