6-2.冬の訪れを越えて(中)
それからというもの、アーサーはすっかりラルフに懐いてしまった。
朝になれば「ラルフはきょうくる?」と目を輝かせて尋ね、けれどその姿が見えぬ日は「なんでこないの……」と唇を尖らせる。時には泣いてだだをこねることも、一度や二度ではなかった。
そのため、ラルフの屋敷への出入りは以前よりもぐっと増えることになった。
感極まったアーサーが「とーさまより、ラルフのほうがすごい!」などと嬉々として叫んだ日のことは──家族の名誉のために、秘密である。
ラルフが仕事をしていればじっとそばで見つめ、道具を運ぶのを手伝いたがり、荷車の整理をしていれば「ぼくもやる!」と袖をまくる。逆に、ラルフが一息つこうものなら「ラルフ、いっしょにあそぼ!」と飛びかかり、そばを離れようとしない。
冬支度のための用件がひととおり済み、もう商人としての出入りは必要なくなっても──
「たまには、顔を見せてやってくれ」
そう侯爵から言われるほどには、アーサーのお気に入りとして、その存在はしっかりと屋敷に根を下ろしていた。
彼が帰る時間になると、アーサーは決まってラルフの足にしがみつく。「ラルフ、かえらないでぇ……!」と切実に言い募るのも、いつものことだった。
それをどうにかなだめすかしながら、ラルフは毎回のようにアーサーの腕をそっと外してやり、困ったように笑って去っていく。
──その日もまた、同じ繰り返しのはずだった。
「さあ、アーサー。もう暗くなるから、ラルフくんも帰る時間よ」
「やだあーっ!」
小さな抗議はいつにも増して力強く、レティシア主導のもと、使用人たちでなんとか引きはがす。
ようやくラルフが玄関へと辿りついたそのとき、不意に扉の外から──冷たい気配が流れ込んできた。
空気そのものが静かに、淡く、白く、凍っているようだった。
見上げた空から、ふわり、ふわりと、初雪が舞い降りている。
まだ日暮れには早いが、どこか心細いような冷たさがひたひたと満ちてゆく。
「これ……大丈夫かしら。道も凍ってしまうかもしれません」
アリシアが不安そうに眉を寄せると、ラルフは一度空を見上げて、しかしいつもの調子で笑ってみせた。
「これくらいでしたら平気です。雪のなかを行き来することもありますし、問題ないですよ」
そう言って元気よく手を振り、外へと踏み出していったのだが──それから、ほんの数分後。
「……帰れませんでした。馬が嫌がって……」
しょんぼりと戻ってきたその姿には、肩にも髪にも雪がうっすらと積もっていた。それがどこか滑稽なほど真面目で、思わずアリシアはくすりと吹き出してしまった。
「大事なくて、よかったです」
呆然と立ち尽くすラルフを、レティシアがすかさず迎え入れる。
その声には、まるで用意していたかのような軽やかさがあった。
「もう、いっそ泊まっていってくださいな。ねえ、いいでしょう、あなた?」
「うむ」
侯爵の鶴の一声もあって、ラルフの今宵の宿泊が決まるや否や──
「やったあーっ!」
アーサーの大歓声が屋敷のなかに明るく響き渡ったのだった。
*
夕食の時刻になり、食堂のテーブルには温かなシチューの香りが漂っていた。
湯気の立ちのぼる陶器の器。胡桃を練り込んだふかふかのパンと、彩り豊かなサラダ。食後には、果実と蜂蜜のパイが焼きたてで供される。
冬の夜にふさわしい、あたたかな献立だった。
「わーい! ラルフ、ここ! となりー!」
アーサーが小さな体を揺らして主張しながら、自分の隣を指さす。
「え、いや……その……」
侯爵家の重厚な食卓を前に、ラルフはあからさまにたじろぐ。
屋敷に出入りしているとはいえ、普段は決して座ることのない場所だ。商人の身が馴染むには、あまりに厳かだった。
「そんなに緊張しないで。あなたは今夜、我が家の大切なお客様よ」
レティシアが微笑んでそう告げると、侯爵も軽く頷いた。
「ああ。これもまた良き縁というもの。遠慮は無用だ」
「……恐れ入ります」
深く頭を下げ、アーサーの隣におずおずと腰を下ろした。
彼は背筋を伸ばして、手元のスプーンすら緊張気味に扱っている。けれど、どこかそわそわした空気は、アーサーの無邪気な歓声に少しずつ和らいでいった。
「ねーラルフ! これ、おいしいよ!」
「……はい、本当に。とても手間をかけておられる味ですね」
ひと匙を口に運び、しみじみと答えるその声に、真摯な熱がにじんでいた。
食卓には、すっかりおだやかな空気が流れ始めていた。
そんなとき。侯爵がワイングラスを揺らしながら、ふと、こんな話を口にした。
「ところでラルフくん。この間倉庫を見たときに気づいたんだが、あの道具棚の金具、ずいぶん古い型だったろう? あれは取り替えるべきだと思うんだが、君の目から見てどうだね?」
「ああ、あれですね……はい。確かに、金具の留まりが悪くなっていました。もし交換するとなると──」
応えるラルフの横顔は、いつのまにか自然なものになっていた。
──が。
「むぅ~……」
アーサーが両頬をふくらませていた。
スプーンの先でシチューをつつき、ぶすっとした顔をラルフと父の間に向ける。
ふたりが自分の知らない話で盛り上がっているのが、どうにも面白くないらしい。
アリシアがつい笑いそうになるのを、唇の奥でそっと噛みとめた、ちょうどそのとき。
レティシアが、やわらかに声を落とした。
「ふたりとも。今はお仕事の時間じゃなくて、夕食の時間よ?」
その声音には、たしなめるよりも、笑うような余白があった。
オスカーは「ああ」と小さく咳ばらいし、背を正す。
ラルフもまた、どこかいたたまれないように眉を下げ、照れたように言葉をこぼした。
「すみません。つい……」
「あなたたち、話し始めると止まらないから」
レティシアはやれやれと肩をすくめながらも、微笑ましげだった。
その瞬間、アーサーが、ぴんと背を伸ばして声をあげた。
「ラルフ、おはなしして!」
「え? あ……はい。何のお話がいいですか?」
アーサーはひと呼吸考えるそぶりを見せてから、目を輝かせた。
「んーとね! ゆきー!」
会話の熱と笑い声が、食堂の空気をゆっくりと満たしてゆく。
そのぬくもりのなかで、窓の外の雪だけが無言で降る。
言葉も届かぬ冷たさと、語りかけるような白さをもって──。
*
夜も更けた頃。
アリシアはひとり、廊下の窓辺に立っていた。
降り積もる雪が、硝子の向こうを白く染めていく。
それを見つめながら、彼女はしばらく動かなかった。
屋敷の扉が閉じられて間もなく、静かだった白は、まるで臨界点を迎えたかのように、濁流のような勢いを増し始めていた。
それは空気を喰らい、光を殺し、世界を閉じ込める白となっていた。
外はもう何も見えない。
門も、木々も、庭先の小道さえも──白い帳に呑まれ、すっかり輪郭を失っている。
そのとき、廊下の奥からそっと近づく足音がした。
振り返ると、ラルフが姿を現した。
「……お嬢様?」
アリシアは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐにおだやかに微笑んだ。
「ラルフさん……まだ、お休みになっていなかったのね」
「はい。……アーサー坊ちゃまが、なかなかお休みにならなかったもので」
「あら……はしゃぎすぎたのね」
ラルフは小さく笑った。
「ええ。今日のことがよほど嬉しかったのでしょう。『あしたもいるの?』と、何度も聞かれました」
「ふふ……ほんとうに、あなたのことが大好きなのね。夢のなかでもあなたの話をしていそう」
アリシアの言葉に、ラルフはわずかに目を伏せた。
それから、ふと彼女の横顔を見やる。
微笑みの影に、ほんの一瞬だけ、言いようのない寂しさが透けた気がした。
「……あの、お嬢様──」
言いかけて、彼は口を閉じた。
窓辺に落ちる横顔は、もう何事もなかったかのように、静かに雪を見つめている。
「……いえ、なんでもありません。夜は冷えますから、早くお戻りを」
アリシアは小さく頷いた。
「ありがとう、ラルフさん。あなたも、お風邪を召しませんように」
そのやりとりはおだやかで、礼儀正しくて、そして──どこか、言葉にならなかったものを残していた。
雪はまだ降り続いていた。
夜を、音のない喧騒で塗りつぶすように──。