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序-2.春はまだ遠く、されど(中)

 

 

 そして──人々は語り始めた。

 

 

「聞いた? あの婚約解消騒動の結末──」

 

 市場で──

 

「あのアリシア・レイモンド様……もう、この世にはいらっしゃらないってねぇ」

「自ら命を絶ったって噂もあるけど、侯爵家は何も語らないんでしょ?」

 

 社交界で──

 

「私は最初から、アリシア様がそんなことするはずないと思っていたのよ?」

「あのメイベル家の娘? 品も知性も伴わない、ただのよそ者だったわよね」

 

 酒場で──

 

「生きてた頃は“堅物でつまらない令嬢”なんて陰口叩かれてたよな」

「死んだ途端“悲劇の美しき令嬢”だってよ。笑える話さ」

 

 笑いながら、彼らの誰ひとりとして、目を合わせようとはしなかった。

 嘲笑の影は、いつのまにか悼む芝居へと姿を変える。

 

 だが一部の者たちは、知っていた。


「あの手紙のこと、聞いたか」

「ああ……遺書だろ。『私はあなたを呪いません』ってやつ」

「普通、書けるか? あんなもん」

「本気であの王子を──エドワード様を、最後まで……愛してたんだろうな」

 

 言葉は濁された。

 その声音は、ほんの少しだけ、悔恨を含んでいた。

 

 

 そして──事件から数年の時が流れる。

 王宮に残された“生き地獄の王子”の話は、国中に広まっていた。


「今や幽閉された王子様は、誰とも話さず、幻想の恋人とお茶会をしてるって」

「何それ、怖い話じゃない。まさか……まだ、あのアリシア様と?」

「そう。ずっと見えない誰かと話してるってさ。『この世界が滅んでも、君と一緒なら』とか、そんな台詞まで……」


 それを真実と信じる者は少なかった。ただの作り話であると──民衆の大半は、やがてこの話を忘れていく。

 事件も風化し、語られることは減っていった。

 

 その忘却の中で、ただひとつだけ確かなことがあった。

 

 あの令嬢──アリシア・レイモンドという存在が、誰よりも痛ましく、この国から消えていったということだった。

 

 

 

 

 朝の光がレイモンド侯爵家の広大な庭園に差し込んでいた。

 だがその温もりは、この館の主たちの心を照らすにはあまりにか細かった。

 

 アリシア・レイモンドがこの世を去ってから、いくつの年月が巡っただろう。

 庭の花壇には今もなお彼女の好きだった花は咲かず、ただ季節だけが何も知らぬふうに移ろってゆく。

 この庭をかつて、あの子は歩いた。けれどその足音の余韻すら、もう誰にも聞き取れはしない。

 

 人々が忘れても、侯爵家には春が来ないままだった。

 

 レイモンド侯爵は変わらぬ姿を保っているようでいて、確かに老いた。

 目元に深く刻まれた皺が増え、言葉の数も少なくなった。

 

 今日もまた、彼はアリシアの部屋の前に立っていた。

 扉は閉ざされたまま。だが、鍵はかかっていない。

 

 いつでも開けることができる。

 けれど彼は、あの日から一度として中に足を踏み入れたことがなかった。

 

「……アリシア」

 

 娘の名を呼ぶ声はしみじみとした痛みを含み、まるで空気そのものに語りかけるようだった。

 その声音には、愛しさも、悔いも、すべてが滲んでいた。

 それは償いでもなく、叫びでもなく、ただ失われたものに触れようとする祈りのかたちだった。

 

 彼にとって、あの日の記憶は今も鮮明だった。

 娘の遺書にあったのは告発でも呪いでもなく、静かな筆致で記された場所と、決意だけだった。

 北の館──雪深いあの地で、娘は命の幕を引いた。

 

「どうして、お前は……」

 

 小さく呟いたその問いには、返る声はない。

 けれど侯爵はすでにわかっている。アリシアは誰も責めることなく、誰の手も借りず、ただひとりで、終わりを選んだのだと。

 

 

 その頃、食堂ではレティシアが紅茶を淹れていた。

 ひとり分のカップが、空の椅子の前にそっと置かれる。

 

「今でも、あなたが夢に出てくるのよ。あの笑顔のまま……」

 

 隣では、アーサーが黙って席に着いていた。

 幼かった弟は、アリシアが亡くなった年齢と並び立とうかというくらいに成長していた。

 

 家族は皆、知っていた。

 この家には、永久に埋まらぬ空席があることを。

 

 それでも、レイモンド家は歩みを止めなかった。

 アリシアが背負い、誇りに思っていたこの家を、前に進めるために。

 花の咲かぬ庭にも、なおも水をやり続けるように。

 

 

 

 

 王宮の地下、もう地図にも描かれぬ廃牢。

 オスカー・レイモンドはひとり、その地を訪れた。

 

 彼がここを訪れる理由を問う者はいない。衛兵は無言のまま扉を開き、そして何も見なかったふうに視線を伏せる。

 もう誰も、あの男に触れようとはしない。報告されるのはただ、時折噂となって浮かびあがる、いくつかの異様な言動ばかり。

 

 鉄の扉を開け、侯爵は足を踏み入れる。

 そこにはひとりの男がいた。そしてその唇には、この空間には似合わぬおだやかな微笑が宿っていた。

 

「アリシア……今日の紅茶は、少し甘めなんだね」

 

 かつての王太子──エドワード・フォン・グラティアは、虚空に向かって話しかけていた。

 

「君はよく覚えているね。僕は……君のすべてが、好きだったよ」

 

 牢獄の風景は、いつ来ても変わらない。

 

 この男は、現実を捨てた。

 罪と向き合うことを選ばず、己の幻想の中に、アリシアを閉じ込めている。

 

「いや、君の淹れ方は完璧だよ。いつだって、僕の好みにぴったりだ」

 

 娘の仇は、最期まで幻想の中で許されることはないのだろう。

 

 それこそがアリシアの優しさがもたらした、最も残酷な罰なのかもしれなかった。

 誰よりも美しく、誰よりも王子を深く愛した娘。それを踏みにじったことの重さを、彼は──死ぬまで背負い続ける。

 いや、死してもなお、彼の魂はあの幻想の中を彷徨い続けるのだ。

 

「……お前は、まだ幸せか? あの娘と、永遠に?」

 

 問うた侯爵に、返る声はなかった。

 男の乾いた声だけが、小さく牢の奥で響いていた。

 

 本当は、今日こそは引導を渡すつもりだった。

 この男のふざけた幻想を断ち切って、現実を再び思い知らせてやろうと思っていた。

 けれど──それは即ち、たとえ幻であろうとも、もう一度アリシアを殺すことになってしまうのではないか。

 その躊躇が幾度も顔を出し、毎度手を出すことは叶わなかった。

 

「愛してるよ、アリシア……愛してる……今度こそ、守るから」

 

 その言葉の途中で、オスカーは扉を閉ざした。

 金属の軋む音が、まるで遠い断末魔のように、長い廊下に消えていった。

 

 

 

 

本編から10年ほど経過している想定です。

 

 

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