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6-1.冬の訪れを越えて(上)

 

 

 陽だまりのぬくもりが、少しずつ短くなっていった。

 枝を離れた葉が日に日に足もとを満たしていくなかで、アリシアは今日も、静かに日々を重ねていた。

 

 気付いた頃には、冬の気配が忍び寄っていた。

 指先に触れる冷たさの向こうに、また新しい季節が待っている。

 

 屋敷のあちらこちらでは、冬支度が進められていた。

 廊下に積まれた毛布と、部屋ごとに掛け替えられてゆく厚手のカーテン。裏庭の薪棚には積まれたばかりの木材が並び、乾いた木肌の香りが、開け放たれた扉から少しだけ家の中に混じってくる。

 

 通りすがる使用人たちは、アリシアに会釈を交わしながら、「そろそろ本格的に冷えてまいりますね」と微笑んでくれる。

 そのやりとりにも、吐く息の白さが混じるようになっていた。

 

 アーサーは、もこもこの上着を着せられながら、袖口をばたばたと振っては、動きにくいとばかりに顔をしかめていた。けれどその姿のぬいぐるみのような愛らしさに、通りかかったメイドたちにたちまち囲まれて、途端に気を良くしていた。

 

 玄関先では、外出前のオスカーの首元に、レティシアが深緋のマフラーを巻いてやっている。

 何気ない仕草のなかに、手織りのぬくもりがささやかに息づいていた。

 

 冬支度にあわせ、屋敷には商人たちの出入りも増えてきた。

 毛織物や熟成肉、保存のきく調味料や果実酒──荷を運ぶたび、彼らは出入り口で帽子を脱ぎ、慣れた様子で軽く頭を下げていく。

 

 そのなかには、ラルフの姿もあった。商人である父の背を追って現れる彼は、忙しなく動く大人たちの背に遅れぬように慌ただしくも、どこか落ち着いた手つきで荷を確認している。

 ちらりとこちらに気づいて目が合えば、控えめながらもやわらかな笑みと小さな会釈を返してくる。

 

 かつての人生でも、アリシアは使用人や関係者に気を配っていたつもりだった。

 けれど屋敷へ出入りするひとつひとつの足音と重みを聞き分けながら、アリシアは思う──自分は本当に、見えていただろうか。誰が、どんな手つきで、どんな想いを込めて、日々の隙間を埋めていたのかを。

 

 この屋敷の生活は、実に幾人もの手と、言葉にされぬ幾つもの心によって支えられている。たとえばラルフのように、ただ黙々と荷を運ぶひとりがいることで、暖炉の火が絶えず、食卓に色が灯り、花瓶には花が生きる。

 

 誰かの働きが、暮らしのぬくもりに変わっていく。

 それは当たり前のようでいて、とても尊いことだった。


 アリシアはそんな日々の一幕を、胸の奥で大切に抱くように見つめていた。

 

 

 

 

 その日は、朝から風が強かった。

 陽の光はおだやかでも、窓辺には冷えた空気が流れ込んでいる。

 

 屋敷の一角で、アーサーの泣き声が上がった。

 

 駆けつけてみれば、彼はお気に入りの小さな木馬のおもちゃを抱えてしゃくり上げていた。片輪が外れ、脚ががたついている。

 

 小さな指で何度も脚を押し込もうとして、けれど当然ながら、うまくいかない。それを繰り返すたび、涙はまた新しく生まれるようにあふれ出てくる。

 

「……どうしたの?」

 

 アリシアが膝をついて声をかけると、アーサーは泣き濡れた顔をこちらに向けた。

 

「……あしが、とれたの」

 

 ひとことずつ、喉の奥に残った嗚咽を押し出すように言った。

 

「ちょっと、見せてくれる?」


 そう言うと、彼は一瞬ためらいがちに視線を揺らし、それから、差し出す。

 

 

 ──前の人生でも、同じようなことがあった。


 そのときも、アーサーは木馬を抱いて泣いていた。

 レティシアやマーガレットがなだめたあと、結局、新しい木馬を買ってあげていた。

 幸いそのおかげでアーサーにはすぐに笑顔が戻ったが──今になって、思う。

 これほどまでに大切にしていたのだから、本当は、直してやるべきだったのではないかと。

 

 新しいものでは、補いきれぬ何かがあったのではないか。

 家族が大切にしているものを、自分も大切にしたい──そう、心から思った。

 

 けれど自分にはこれを直せるほどの技量はない。

 アリシアは木馬の脚をそっと指先で撫でながら、思案する。グレイスに相談すべきか、それとも職人を頼るか──けれど、アーサーの涙が乾かぬうちに、できるだけ早く、応えたかった。

 

 

 そのとき、不意に思い出す。

 サラがぱっと目を輝かせながら話しかけてきた日のことだ。

 

『聞いてくださいよお嬢様ーっ! 最近出入りしている、ラルフさん? でしたっけ? あの方、窓枠のガタつきをささっと直してくれたんですよ!』

 

 その横では、リナも遠慮がちに頷いていた。

 

『とても……手際が、よかったです』

『こないだジーナにも聞いたんですけど、洗濯小屋の滑車が壊れて困ってたらそれも直してくれたみたいで!』

『すごく器用で……慣れているみたい、でした』

 

 

 ──そうだ、ラルフだ。

 

 冬支度のため屋敷へよく出入りしている商人の青年。あまり話す機会はないけれど、いつも物の扱いは慎重で、丁寧だった。

 あの人なら、もしかしたら──この木馬を直せるかもしれない。

 

 アリシアはアーサーの目線に合わせて、やさしく微笑んだ。

 

「ちょっとだけ、私に預けてくれる? 直してもらえると思うの」

「……なおるの?」

「ええ、きっと。とても大事な木馬なんでしょう?」

 

 アーサーはぐずりながらも、こくりと小さく頷いて、アリシアにしがみついた。

 ふわふわの金髪が揺れ、頬に涙の跡が残っている。

 

「じゃあ、一緒に行きましょうか」

 

 アリシアが声をかけると、アーサーは目をこすりながらも再び素直に頷いた。

 木馬を抱えたアリシアに手を引かれ、ちょこちょこと歩いてついてくる。

 

 

 ラルフの姿は、ちょうど裏庭の薪棚のあたりにあった。

 束ねられた薪を運び込む手つきは手慣れていて、無駄がない。ふとこちらに気づいて顔を上げた彼に、アリシアは歩み寄って声をかけた。

 

「ラルフさん。いま、少しお時間をいただいても?」

 

 呼びかけに、ラルフは顔を上げて小さく礼をした。

 

「はい。どうされましたか、お嬢様」

 

 その問いに、アリシアはそっと木馬を差し出す。片輪の外れた木製のそれは、長く愛されてきた跡があちこちに残っていた。

 

「この子のお気に入りなの。でも……壊れてしまって」

 

 ちらりと隣のアーサーを見ると、彼はまだ不安そうに木馬を見つめていた。

 

「なんとか……直るかしら?」

 

 アリシアの問いに、ラルフは木馬をそっと持ち上げ、指先で外れた脚の軸をなぞるように観察した。くるりと傾けながら、ほんの少し目を細める。

 

「……大丈夫です。折れてはいませんから。少し削って金具を入れ直せば、また動かせると思います」

 

 アリシアの肩がわずかに緩む。安堵がその胸を撫でたのを、アーサーも感じ取ったのだろう。

 

「なおる?」

「ええ、直るって」

 

 アリシアがうなずくと、アーサーの口元がほんのりとほころんだ。

 

「少しお時間をいただきますが……よろしいでしょうか」

「ええ。ありがとう、ラルフさん。助かります」

 

 ラルフは「いえ」と控えめに首を振ると、もう一度木馬を確認し、「少しお待ちください」と声をかけ、すぐそばに置いていた工具箱へと向かった。

 

 数歩のうちに戻ってくると、アーサーにも見えるようにその場で膝をつき、てきぱきと作業を始める。

 

「これは、接合部の木が乾いて、少し縮んでしまっているんです。だから金具が緩んで抜けやすくなっていたんですね」

 

 その説明は、子どもにも届くようにやわらかい声色だった。

 

 ラルフは彫刻刀で軸を整え、くさびのような金具を滑らせるように差し込んでいく。最後に、細い金槌を手に取る。

 とん、とんと音を立てるたびに、アーサーは丸い目をさらに大きく見開いた。

 

 まるで、それは魔法のようだった。

 

 ほんの数分の作業で、がたついていた木馬は見違えるほどしっかりと修復されていた。

 

「できました」

 

 差し出された木馬を受け取ったアーサーは、息を呑み、それから――

 

「すごい……なおってる!」

 

 ぱっと、その顔に光が咲いた。一足先に春が来たように、笑顔が弾けた。木馬をぎゅっと抱きしめたかと思えば、勢いよくラルフに飛びついた。

 

「ラルフ、すごい! いちばんすごい! ぼく、おおきくなったらラルフになるー!」

 

 言葉がこぼれ、止まらない。そのまま夢中で喋り続けるアーサーを、ラルフは困ったように笑いながらもしっかりと受け止めた。

 

「はは……それは恐れ多いですね……」

 

 アリシアはその様子を見つめながら、胸を撫でおろす。ついさっきまでアーサーが泣きべそをかいていたのが、まるで嘘のようだった。

 

 ラルフは少し困ったように笑っていたが、その表情はやさしい。

 

 ──この人もきっと、誰かの大切なものを大切にできる人なのだろう。

 

 そう思うと、季節の変わり目の冷たい風が、少しだけゆるやかに感じられた。

 

 

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