5-2.秋の名を知るとき(中)
そして──季節のめぐりを祝う、収穫祭の朝がやってきた。
アリシアが家族とともに街の中心である広場に姿を現すと、そっと人々の足が止まった。
「……あれは、侯爵家の……?」
誰かが小声で呟く。
その声を起点に、波紋のように視線が広がっていく。
普段は王都で暮らす彼女の姿を、領地の人々はほとんど知らない。噂と風聞の中の存在にすぎなかった。
けれど、こうして侯爵夫妻と並び立つその姿には、確かな気品と血統の重みがあった。誰もが、その身分を見誤ることはない。
アリシアは、思わず胸に手を当てた。
王都で学んだ礼儀作法は、この場にふさわしいのかわからない。
けれど深くひとつ息を吸って、一歩前へと歩み出る。
「皆さま、こんにちは。今日という日に、こうしてお会いできてとても嬉しいです」
澄んだ張りのある声だった。
その響きが広場の端々まで届くと、ぴんと張っていた空気が、ふわりとほどける。
そして最初に声をかけてきたのは、果物屋の女将だった。
「お嬢様、これ、よかったら食べてって!」
差し出されたのは籠いっぱいの葡萄。
アリシアはぱっと顔を綻ばせた。
「まあ……ありがとうございます。これも、採れたばかりなんですか?」
「そりゃもう! 今年は雨の加減がちょうどよくて、いい出来なんですよ」
それを皮切りに、次々と声がかかる。
パン屋が焼き立てを差し出し、布屋が新しい反物の端を広げて見せる。子どもたちは屋台のまわりを駆け、笑い声が風に乗って届いた。
アリシアがひとつ返すたびに、誰かが笑い、誰かが頷く。
飾らない、まっすぐな言葉たち──けれどそのどれもが、彼女にとっては初めての、しっかりとした領民との対話だった。
やがて小さな子どもがおずおずと祭りの花輪を差し出した。
「これ……おひめさまに、あげる」
「……ありがとう。とっても素敵ね」
アリシアがしゃがんでそれを受け取ると、子どもに笑顔が咲く。
──そうだ、これは歓迎なのだ。
ここに生きる人々が、彼女の名を知っている。
この土地で育まれた実りとともに、帰ってきた彼女を迎えてくれている。
空を見上げれば、ちぎれた雲のあいだから、秋の陽光がきらきらと降り注いでいた。
挨拶を終えたあと、アリシアはレティシアに街を見て回りたいと申し出た。
「護衛を忘れずに」と笑顔で許可をもらい、グレイスを伴って出発する。
少し距離を置いて、侯爵家から随行している騎士も自然とその後についた。
サラとベルにも声をかけると、サラは喜々として、ベルは戸惑いながらもそれに続いた。
炭火に炙られた香ばしい匂いが風に乗り、焼き林檎の蜜の甘さが鼻先をくすぐる。
素朴な菓子を分け合いながら、並んだ屋台をひとつひとつ覗いてまわる。素焼きの器に刻まれた幾何模様、木彫りの小鳥を吊るした飾り棚、色とりどりの花の冠──。
ふと目が合えば笑みがこぼれ、足取りが自然と揃う。
身分も、育ちも、年齢すら異なる四人が、並んで同じ道を歩く。
それはどこか不思議な光景だったけれど、心地のよいものだった。
「……楽しいわね」
ぽつりとこぼれたその言葉に、三人が顔を上げる。
「ええ、楽しいですね」
「すっごく!」
「……はい」
笑い声と楽器の音色が混ざり合い、空には静かに夕映えの光が満ちていく。
それはまるで、琥珀のしずくが空から降り注いでくるかのような、ゆっくりとした時間の流れだった。
四人はそのなかを歩いていく。
違う歩幅で、それでも、確かな歩調で。
*
祭りの喧噪の中、ふと耳を澄ますと──広場の片隅から、か細くも必死な声が聞こえてきた。
「……ミィ! どこなの、お願い、返事して……!」
人波の間に、小柄な少女が泣きべそをかいて立っていた。年の頃はアリシアと変わらない。
それに気づいたサラが、真っ先に駆け寄る。
「どうしたの? 誰かとはぐれたの?」
「うん……妹と来てたのに、目を離したらいなくなって……!」
少女は涙をこぼしながら肩を震わせていた。乱れた髪が、ざわめきの中でいっそう心細く映る。
「妹さんのお名前は?」
アリシアが問いかけると、少女は涙声で答えた。
「ミィ……ミーナ。五つで、赤いリボンをつけてて……」
「お嬢様、どうなさいますか?」
グレイスの問いに、アリシアは迷いなく答えた。
「探しましょう。人混みで幼子がひとりは危険です。サラ、ベル、お願い」
「はいっ、私、こっちを見てきます! ベルも一緒に行こう!」
「わ、わかりました……!」
ふたりはすぐに別方向へと小走りに駆け出した。護衛の数人が素早く動き、追いかけていく。
残ったアリシアは、涙に濡れた少女の肩にそっと手を添える。
かつて、心を尽くしてもその思いが踏みにじられたことがあった。けれど──それでもなお、誰かのために手を差し伸べようとする勇気が、アリシアに芽生えていた。
「必ず見つけましょう。一緒に、ね」
アリシアの言葉に、少女はこくりと頷いた。
幼子に呼びかける声が、夕暮れの光に溶けていく──。
アリシアたちが人混みを縫うように探していると、かすかな啜り泣きが耳に届いた。
その声に導かれるように、屋台の列の裏手、荷車の陰に目を向ければ──そこには、ひとり蹲る小さな背中があった。
まだ幼いその頭に、赤のリボンが結ばれている。
見た瞬間、アリシアはためらうことなく駆け寄った。
「……ミーナさん?」
びくりと肩を揺らし、小さな顔がこちらを向く。涙で濡れた頬、握りしめたお菓子の袋、そして怯えたような目。
「ミィ!」
背後から、ともに探していた姉──ニーナの叫ぶような声が上がった。
「おねえちゃ……!」
「もう! どれだけ探したと思ってるの! ばかっ……!」
ミーナが泣きながら駆け寄り、ニーナもまた泣き笑いで妹を抱きしめる。
「本当に、ありがとう……」
涙を拭きながら、ニーナがアリシアたちへ深く頭を下げる。
辺りを駆け回っていたサラたちも戻ってきて、安堵の顔を見せる。
それを見ていた少女の瞳に、ふと迷いが浮かぶ。
「……あの、もしかして、さっき馬車から降りてきた……レイモンド侯爵家の、お嬢様ですか?」
おずおずと尋ねた声には、不安と敬意が滲んでいた。
アリシアはすぐに、やわらかく微笑む。
「ええ。アリシア・レイモンドです。でも、今日はお祭りの日ですもの──“お嬢様”じゃなくて、アリシアでいいわ」
少女の唇が、きゅっと結ばれる。それから、不意に緩んだ。
傍らのグレイスが目を細める中、サラが目を輝かせて口を挟む。
「えっ、じゃあもっと親しく呼んでもいいってことですね!?」
「……サラさんに言ったんじゃないと思いますよ」
「ええ~、そんなぁ~。ベル厳し〜い」
笑い声が重なり、それが空気に紛れて広がっていく。
くすくすと笑うニーナとミーナ。アリシアもまた、自然に笑っていた。
──この土地の空気。この人々の笑顔。
家を守るということは、きっと屋敷や伝統を継いでいくことだけではない。こうして領地の人々が笑い合える日々を繋いでいくことなのだ。
「来て! 私が案内してあげる!」
すっかり元気を取り戻したニーナが、ぱっとアリシアの手を取る。
その手に導かれて、彼女はまた、広場の喧騒の中へと歩き出した。
広場に篝火が焚かれ、夜の訪れを告げる笛の音がひとつ、冴え渡った。
その音に誘われるように人々が集まり、輪になって踊りの支度を始める。
それは、秋の豊穣を神に感謝するための踊り。
誰もが加わってよい、笑顔を交わすための舞だった。
「アリシアも、一緒にやろうよ!」
「私、お祭りの踊りなんて……」
「平気平気! 私が教えてあげる!」
ニーナに手を引かれ、少し戸惑いながらも、アリシアは輪の中へと踏み出した。
足取りは簡単。回って、跳ねて、手を叩くだけ。
けれど不思議と、誰かと目を合わせて笑うだけで、それが何倍にも楽しくなっていく。
「……なんだか、夢みたい」
アリシアがぽつりと呟くと、隣にいたニーナが、にっと笑って返す。
「夢でもいいじゃん! 楽しいでしょ!」
篝火のゆらめきが、輪の中心を照らす。
笑い声が交差し、手と手が重なり、心と心が結ばれていくようだった。
踊りの輪がほどけ、灯りが少しずつ小さくなる。
広場の片隅で、アリシアとニーナは最後のぶどうジュースを分け合っていた。
「……ねえ、アリシア。また来年も、来る?」
ふいに投げかけられたその声には、少しの不安と、少しの希望がにじんでいた。
アリシアは一瞬だけ言葉を飲み、澄んだ秋の夜空を見上げる。
そこには、無数の星が、音もなく瞬いていた。
「ええ。きっと、来るわ。だから、また一緒に……踊ってくれる?」
「うん! 今度は、もっと上手に教えてあげる!」
笑い合って、そっと手を重ねる。
確かな約束が、確かな想いとなって、ひとつ、結ばれた。
──侯爵令嬢と、庶民の少女。
身分も暮らしも違うふたりが、名前を呼び合い、笑い合い、約束を交わせる。
そんな奇跡のような一日が、終わろうとしていた。
「またね、ニーナ」
「うん、またね。絶対だよ」
火の揺らめきに照らされて、ふたりは別れを告げた。
やがてアリシアの背は人波に紛れ、ニーナの姿も夜の奥へと溶けていく。
けれど、ふたりの胸に灯った小さな光は──残り続けていた。
キリのいいところまで入れたいなと思ったらやや駆け足になってしまいました……。




