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5-1.秋の名を知るとき(上)

 

 

 まばゆく鮮やかな夏が、レイモンド家を照らしていた。

 

 午前の陽を避け、母と並んで冷たいレモネードを口にする。毎年この季節になると、決まって作ってくれた特製の味。

 本当は蜂蜜を多めに入れてほしかったのだとわがままを言ってみると、レティシアは笑って頷いてくれた。

 そんな日のひとつに、古い刺繍箱を抱えてきたマーガレットがそっと縫いかけのハンカチを差し出してきたこともあった。

 「続きを、やってみません?」──そのひと声に、針の先から止まっていた時間がほどけていくようだった。

 涼しい室内では、ひとりピアノの鍵盤に指を滑らせる午後もあった。

 音は夏の光をたゆたわせるように静かに揺れ、日々は、きらめく頁のようにそっと重ねられていく。

 

 

 やがて空が高く澄みはじめたある日、父が言った。

 

「アリシア。今年の秋は、皆で領地へ帰ろうか」

 

 その提案に、アリシアは少し目を見開いた。

 

 秋になれば王都を離れ、領地で収穫を祝い、民と時を過ごす──それはレイモンド家に代々受け継がれてきた習わしだった。

 けれどアリシアが王太子妃を見据えた教育を受け始めてからは、その伝統も形を変えた。

 いつしか秋の旅は父ひとりの帰郷となり、母と子どもたちは王都に留まるようになっていた。

 

 けれど、今年は違う。

 ほぼ確定していた婚約の話は白紙となり、アリシアが王都に残る必要はなくなった。

 

「……ええ。行きたいです、お父さま」

 

 そう答えると、オスカーは嬉しそうに目を細めた。

 

 この秋は、あの頃とは違うものになる。

 アリシアがそっと胸に手を当てると、そこは確かに高鳴っていた。

 

 

 

 

 広い街道を、レイモンド家の一行を乗せた馬車がゆっくりと進んでいく。

 

 先頭を行くのは、侯爵夫妻と子どもたちが乗る主馬車。そのすぐ後ろには荷を積んだ従者用の馬車が続き、さらにその外周を馬上の護衛たちが囲むように走っていた。

 手綱を握るのは、長年レイモンド家に仕える老御者。揺れる木々の影を追うように、道をなぞるその手綱さばきに迷いはない。

 

 領地へと向かうのは侯爵夫妻とその子どもたちに、何人かの使用人。

 王都の屋敷の留守は、執事クラレンスが預かることとなった。

 

 

 馬車の内部では、アーサーが窓に張りついて、道ばたのすべてを実況していた。

 

「どんぐり! ことり! はっぱ、あかーい!」

 

 今回はアーサーの退屈しのぎも兼ねて、サラが特別に主馬車へ同乗していた。向かいに座った彼女は軽く身を乗り出し、「ほんとですね~!」と明るく声をあげる。おおげさな相づちにアーサーは得意げに笑い、小さな指で窓の外をさし続けていた。

 

 そのにぎやかなやりとりを見て、アリシアは微笑む。

 オスカーは書類に目を通しながらも、時折、視線を上げてはその光景に頬をゆるめている。レティシアはそんな家族の様子をあたたかに見守っていた。

 

 なんということのない時間──けれど、こうして家族と笑い合える今が、とても愛おしい。

 

 王都を離れてから、まだそれほど時間は経っていない。けれど、空の色も、風の匂いも、どこかゆるやかに変わってきた。

 馬車の車輪が、落ち葉をひとつ、ふたつと巻き上げながら、季節の境をやさしく踏み越えていくのだった。

 

 

 馬車が街道を外れ、小高い丘を越えて進んでいくと、やがて見慣れた景色が広がってきた。

 

 赤く色づき始めた並木道の向こう。石造りの門の奥に、レイモンド家の領地屋敷が、しんと澄んだ秋の空気の中に姿を現す。

 その佇まいに、アリシアの胸の奥が、ふと懐かしさで満たされる。

 

「──あっ!」

 

 アーサーが甲高い声を上げた。小さな手が硝子越しに屋敷を指さし、きらきらと目を輝かせている。

 

「大きなお屋敷ですねえ、坊ちゃま!」

 

 サラも感嘆の声を上げていた。アーサーとサラにとってははじめての領地訪問となる。

 アリシアにとっては──途方もなく懐かしく、久しぶりの帰郷だった。

 いったいどれほどこの地の土を踏んでいないのか、自分でもわからない。

 

 ──ただいま。

 

 そう言葉にしないまま、彼女はそっと馬車を降りる。

 

「──お帰りなさいませ!」

 

 そう言って迎えてくれたのは、領地屋敷の管理人、ガスパールだった。

 

「お嬢様……こんなに大きくなられて……!」

 

 陽に焼けた温厚な顔がぱっと綻んだ。

 くしゃりと目元を細め、帽子を胸に抱えて頭を下げる所作は、昔と少しも変わらない。

 

 この地を訪れるたびに迎えてくれたあの姿が、まるで昨日のことのように思い出された。

 けれど現実には、長い年月と、幾つもの出来事が間に横たわっていた。

 

 それでも。まるで時の隔たりなど存在しなかったかのように、今また、こうして帰ってこられたのだ。

 

 アリシアは思わず笑みをこぼした。

 

「おひさしぶりです、ガスパールおじさん」

「ええ、ええ! まさかまたこうして皆さまお揃いで……これほど嬉しいことはありません」

 

 ガスパールは何度も頷きながら、一行の中の小さな存在に目を留めた。

 

「おやまあ……こちらが坊ちゃまですか。お噂には聞いておりましたが、お目にかかるのは初めてでございますな!」

 

 驚きと喜びが入り混じった声色だった。

 

「お生まれになってから、もう二年にもなりますか……月日の早いこと。こうして領地までお越しいただける日が来ようとは──」

 

 アリシアが「弟のアーサーです」と紹介すると、小さな弟は「あーしゃ!」と自分の名前を得意げに繰り返した。

 

「はは、これは将来が楽しみな坊ちゃまですな」

 

 ガスパールの目尻に刻まれた皺が、あたたかな感慨に揺れる。

 その背後には、若者たちが緊張した面持ちで控えていた。

 

「見習いのユアンとベルです。ふたりとも、まだまだ若輩者でございますが……どうぞよろしくお願いいたします」

 

 そう紹介され、アリシアは丁寧に会釈を返す。

 

 ユアンは真面目そうな青年で、姿勢はよいが顔がやや強張っていた。ベルは年の近い少女で、きょろきょろと落ち着きなく視線を動かしていたが懸命にに礼儀を守ろうと頑張っている様子だった。

 

 ──この場所で、どんな日々が始まるのだろう。

 少しの不安と、それ以上の期待を胸に、アリシアは屋敷の扉をくぐった。

 

 

 

 

 夕食どきの屋敷の一角にある食堂には、あたたかかな香りが満ちていた。

 木の梁がむき出しになった天井は、深い艶を湛えた栗材で組まれており、細工こそ控えめながら、堅牢な造りがひと目でわかる。王都の屋敷に比べればずっと素朴な造りだが、それがかえって、心を落ち着けてくれるようだった。

 

 テーブルの上には、焼き立てのパンとたっぷりの野菜スープ。そして、ほんのり甘いかぼちゃのグラタンが湯気を立てて待っていた。

 手入れの行き届いた白磁の器と銀縁のスープボウルが、さりげない格式を添えている。

 

 アリシアがその様子に目を輝かせると、サラが胸を張ってみせた。

 

「見てください、お嬢様〜! これ、ぜんぶ領地の畑でとれたんですよ! あたしもお手伝いさせていただいたんです!」

 

 パンは麦の香りがほんのりと立ち、王都のしっとりとした白パンとは違って、外はかりっと香ばしい。

 スープには刻まれたハーブが浮かび、根菜や豆の滋味がじんわりと舌に広がっていく。

 

「美味しいわ……!」

 

 アリシアはそう言って、もう一口スプーンを口に運ぶ。

 その味は、確かに記憶の底にあったものと繋がっていた。

 幼い頃、両親とともにこの屋敷を訪れたとき、食卓に並んでいたあの香り――忘れていたはずの郷愁が、いま、舌の上でほどけていく。

 

「オスカー様が戻られるときは、いつもこのスープをお作りするんです。お嬢様にもまた召し上がっていただけて、ほんとうに嬉しいですわ」

 

 そう言って笑ったのは、台所を任されている料理番の女性だった。

 ふくよかな体に、軽やかな手際。長い間この屋敷の厨房を守ってきたマリーである。アリシアも何度となくスープをよそってもらった記憶がある。

 

「ええ……私もずっと、これをもう一度食べたかったの……」

「お嬢様にそう言っていただけるなら、一度と言わず何度でもお作りしますよ!」

 

 笑いながらそう言う声も、昔と同じ。

 湯気とともに立ちのぼる懐かしい香りとともに、あの頃の記憶が、ぽろぽろとこぼれ落ちていくようだった。

 

 食卓には、自然な笑い声があふれていた。

 

 王都では静かに、行儀よく食べるのが常だった。

 けれどここでは、サラの明るい声にアーサーの手づかみ、それをたしなめるレティシアのやわらかな声音がある。

 オスカーも珍しくおだやかな表情で、スープのおかわりを求めていた。

 

 アリシアはふと、匙を止める。

 ──ああ、ここは、家族の場所なのだ。

 

 あれから前の人生も含めて、どれほどの時が流れたことか。

 ようやく再び、この場所へ帰ってこられたのだ。

 

 

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