4-3.夏の柔らかな日々(下)
ある日の午後、アリシアは陽の落ちかけた中庭を歩いていた。
ふと耳が拾った笑い声に惹かれて目を向けると、先にいたのはハウスメイドのサラとリナだった。
ふたりは肩に大きな布袋を担ぎ、急ぎ足でどこかへ向かっていた。軽口を交わしながらも、その足取りは忙しげで、まるで追い立てられるような速さだった。
アリシアは思わず足を止め、ふたりに向かって声をかけた。
「どこへ行くの?」
その声にサラがぴょこんと顔を上げ、ぱっと花が咲くように表情を明るくした。
「あっ! お嬢様~! 今から洗濯場に手伝いに行くところなんです。お天気がいいから、今日は干すものが山のようで……!」
息を弾ませながらも、声は明るく張りがあり、袋の重みに少しよろける様子もどこか誇らしげだった。隣のリナも、頬に汗をにじませながら、うんうんと勢いよく頷いている。
アリシアはほんの一瞬迷い、けれどすぐに思ったままを口にした。
「……私も、一緒に行ってもいいかしら?」
そのひと言に、ふたりの動きがぴたりと止まった。
「えっ!? お嬢様が、洗濯場へ……!?」
「そ、そんな……お見せできるような場所じゃ……!」
目を丸くして動揺するふたりの様子があまりにおかしくて、アリシアはつい、くすりと笑ってしまった。
屋敷の裏手にある洗濯場は、普段アリシアの生活とは交わらない場所だった。
けれど、だからこそ興味があった。
知っているようで、知らない世界。毎日、目にしないだけで、誰かが懸命に働いている風景。
「どうしても、見てみたいの」
その言葉を聞くと、サラは肩をすくめて大げさにため息をついた。
「こうなるとお嬢様、けっこー頑固ですからねぇ~。仕方ない! じゃあ、ご案内しますよっ!」
笑いながらそう言ってくれる声に、アリシアは嬉しくなる。
昔の自分なら、こんなお願いは口にできなかった。けれど今は、気づけば自然と、心のままに言葉が出ていた。
そうしてアリシアは、サラとリナと肩を並べて、裏庭へと続く小径を歩いた。
草いきれ、遠くに響く水音──石垣の陰を抜けた先に、それはあった。
古い蔦の絡む小屋──それが洗濯場だった。
石造りの床に並ぶ大きな洗い桶。水を汲む滑車の音が響き、湯気の立ちこめる空気が漂う。積み重ねられた濡れたシーツに、干されるまでの道のりを待つ布たち。
そこは力強く、絶え間ない手仕事が脈打つ女たちの戦場だった。
アリシアが足を踏み入れると、作業の手を動かしていた数人のランドリーメイドたちがちらちらとこちらを見やる。
そして、洗い桶の前で布をたぐっていた一人の女性が、ふと顔を上げた。
色褪せたバンダナを巻き、腕まくりしたたくましい腕。赤く荒れた手で濡れたリネンを絞っていたその人こそ、ランドリーメイド長のフローレンスだった。
アリシアの姿を認めたフローレンスは、一瞬、ぽかんと目を丸くし──そしてすぐに、深いため息をついた。
「グレイス様が“お嬢様がそのうちお見えになるかも”っておっしゃってたものね。まさか、本当にいらっしゃるとは……」
しかしその声音には、呆れだけでなく、どこか微笑ましさのような色が滲んでいた。
「今日は見学というやつでしょうかね。それじゃあ、ここをお使いになって。指を切らないようお気をつけを」
フローレンスは使っていた桶のひとつを空け、ぽんと軽く手を叩いて示してくれる。
どうやら先にグレイスが根回しをしてくれているからこそ、いつもやりたいことに挑戦ができているようだった。
「ありがとう、フローレンス」
アリシアがきちんと頭を下げると、フローレンスは目尻を緩めた。
(グレイスにも、あとでお礼を言っておかなくちゃ)
それを合図のように、サラとリナがぱたぱたと奥へ駆けていき、他のメイドたちに声をかける。
「みんな~! 見て見て、今日はお嬢様が来てくれたんだよ~!」
興味と少しの緊張が混ざったような視線が、そっとアリシアに注がれる。
そのなかで、一人のメイドが挨拶をしようと前に出ようとしたとき──
「ちょーっと待ったー!!」
サラが両手を広げてその前に立ちふさがる。
「お嬢様っ。この子の名前、当ててみてくださいっ!」
アリシアは思わず笑って、少し首を傾けながら、その少女の顔をよく見つめた。
「えっと……あなたは確か、ジーナだったかしら?」
その言葉が落ちた瞬間、メイドの目が見開かれ、ぱあっと頬が紅潮した。
両手で頬を押さえ、息を呑む。
「すごぉい。正解ですっ」
「ふふん、そうでしょ! お嬢様ってすごいでしょ!」
と、なぜか自分のことのように胸を張るサラ。隣のリナも嬉しそうにぱちぱちと拍手を送っていた。
いつのまにか、洗濯場にはほんのりと笑いの気配が満ちはじめていた。
そしてアリシアはジーナに教わりながら、おそるおそる洗い桶へと手を差し入れた。
ぬるま湯は意外なほどやさしく肌を包み、細やかな泡が指の隙間にふんわりと絡みつく。
「これは軽く押し洗いをするんですっ。こちらはぁ、縫い目に汚れが残りやすいので、こうやって──」
ジーナがしゃがみこみながら丁寧に手本を見せる。その動きには、日々の積み重ねでしか得られない無駄のない美しさがあった。
アリシアは何度も頷きながら、まるで新しい言語を学ぶ子どものように、吸い込まれるような瞳でそのすべてを見つめていた。
すべて洗い終われば水を含んだ布たちを籠に詰め、次は干し場へ。
裏庭の一角、風通しの良い芝地では、いくつもの洗濯縄がしなるように張られていた。
ジーナとサラが手早く洗濯物を広げ、リナが木ばさみを手渡していく。その連携に見惚れていると、自然とアリシアもその流れに組み込まれていた。
彼女は一枚のシーツを両手に広げ、そっと持ち上げる。
──ふわり。
陽の光を受けた布は、まるで白銀のヴェールのように宙を泳ぎ、風に撫でられてはひらひらと揺れた。
夏の匂いを含んだ風が、肌をさらりと撫でる。まぶしい陽射しの下、真っ白な洗濯物が整然と風にたなびく光景は、どこかこの世のものとは思えない美しさだった。
白い布の波間に、風と光と汗の香りが混ざる。
「……きれい……!」
思わずこぼれた声に、傍らで干し終えたフローレンスがふと足を止める。
彼女はほんの少し口角を上げ、静かに言った。
「そうでしょう。洗濯物がそろって干される光景は──私たちの小さな誇りなんですのよ」
その声には、汗と手荒れの向こう側にある、静かな矜持が宿っていた。
人の目に触れない場所でも、黙々と積み重ねられている尊さ。
知らなかった世界に、今日も自分は一歩足を踏み入れたのだ。
アリシアは小さく頷いた。
自分もその輪の中にいられたことが、心の底から嬉しかった。
*
夕方の風が、廊下の先を通り抜けていった。
レイモンド邸の一角。窓辺の談話室には、長年仕える女たちが静かに腰を下ろしていた。
総メイド長のデボラ。料理長のマティルダ。そしてランドリーメイド長のフローレンス。
庭の向こうでは、干されたシーツの間を、アリシアと弟のアーサーが駆けていた。白い布が風に揺れて、ふたりの笑い声が柔らかな空に溶けていく。
「……変わったねえ、お嬢様」
最初に口を開いたのはマティルダだった。
「厨房の戸を叩いてきたときは、ほんとにどうしようかと思ったよ」
「それならこちらだって。信じられる? 侯爵家のご令嬢が、洗濯場に来るなんて」
フローレンスのまなざしは外の光景を追いながらも、先ほどの出来事を思い返しているようだった。
デボラが、目を細めて言う。
「あの方は、きっと知ろうとしているのでしょうね。この家を、自分の目で、自分の手で」
それは言葉以上に、確かな実感だった。
「この夏が終わる頃には……」
誰ともなく呟かれたそのひと言に、三人は静かに頷いた。
──きっと、レイモンド家のお嬢様は、もっと強く、美しく輝くだろう。




