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4-2.夏の柔らかな日々(中)

 

 

 マティルダは湯気と熱気のあいだで、オーブンの奥を見つめている。額の汗をぬぐいもせず、ただ、耳と鼻と勘──ここで積み重ねてきたすべての感覚で、焼きあがる一瞬を待っていた。

 

 その隣では、アリシアがそわそわと手を組んだまま立っていた。

 火照った頬に汗がひとすじ。胸の奥で、何かが静かに高鳴っている。

 

「……もうすぐ?」

 

 息を呑むようにして小声で尋ねると、マティルダはわずかに片眉を上げ、口元だけで笑った。

 

「もうすぐ、もうすぐ。焦らない焦らない、タルトはせっかちを嫌うんです」

 

 そして、厚手の鍋つかみを両手にはめ、音を立てぬよう注意深くオーブンの扉を開いた。

 その瞬間、ふわり──と香りが弾けた。

 

 熱の波とともに立ち上る甘い蒸気。

 オレンジの果皮が焼けて立ち昇る柑橘のかすかな苦味と、溶けた蜂蜜が焦げ際に生む複雑な甘さが、空気の層にまじりあって厨房全体を包みこむ。

 

「ほうら、いい感じだよ。見てごらん、お嬢様」

 

 マティルダの声には、まるで自分の娘の成長を誇るようなやわらかさが滲んでいた。

 アリシアは思わず両手を口元に当てて、感嘆の息を洩らす。

 

「……すごい……本当に、焼けた……」

 

 それは驚きでもあり、喜びでもあり──何より、小さな夢が現実のかたちになった瞬間の声だった。

 

「ええ。お嬢様のはじめてのタルト、大成功ですよ。さ、粗熱を取らなきゃ。焦らず、ゆっくり冷ますんだよ」

「わかったわ。マティルダ、ありがとう」

 

 マティルダが金網の上に焼きたてのタルトを移すと、厨房の隅からまたしてもぬっと、影のように現れた男がひとり。

 

 ハロルドは無言のまま巨大な扇を持って現れ、いつもの仏頂面を崩すことなく、タルトへ向かって一心に風を送る。

 風とともに揺れる前髪の奥、ほんのわずかに目尻が緩んでいた。

 

 無口な職人の、不器用なやさしさ。それをアリシアは、すぐに感じとった。

 

「ありがとう」

 

 声をかけても、ハロルドはやはり何も返さなかった。けれど、扇をあおぐ手の動きが、ほんのすこしだけ丁寧になった。

 

 

 しばらくして湯気がすうっと収まり、タルトの香りだけがやさしく残る。

 

「少し味見してみます?」

 

 マティルダの問いに頷くと、脇に控えていたハロルドが黙ってナイフを取り、焼きたてのタルトをそっと切り分けた。

 鋭い刃先が生地を割ると、ぱき、と小さな音がして、香りがふたたびほころぶ。彼はそのひとかけを皿に載せ、無言のままアリシアに差し出した。

 

「どうぞ、お嬢様。はじめて作った菓子、どんな味か確かめてごらん」

 

 アリシアは、ごくりと唾を飲み込んでから、そっとフォークを手に取った。

 少しだけ震える手で、一口分すくいあげ、口元へと運ぶ。

 

 そしてそっと噛みしめる。

 その瞬間、頬に熱がのぼり、目がふわりとほどけた。

 

「……美味しい……!」

 

 アリシアの唇から漏れた声は、思わずこぼれたものだった。

 舌に広がるのは、焼きたての蜜の甘さと、柑橘のほのかな酸味、香ばしく焦げた表面のほろ苦さ──それらが層になって、季節の境のように触れ合っている。

 春の名残と夏の兆しとを味わったかのような心地だった。

 

 アリシアは夢中でもうひと口運ぶ。

 胸の奥に、じんわりと満ちていくものがある。

 誰かのためでも、何かの義務でもなく、自分の手で作り上げたものが美味しいと感じられたこと。

 それは、小さな自信の種だった。

 

「……ふふっ」

 

 小さく笑うと、隣にいたマティルダが、両腕を組んでにやりと笑っていた。

 

「上出来だよ、お嬢様。はじめてにしちゃ、たいしたもんだ」

 

 その言葉に、アリシアは照れくさそうに視線を落とした。

 けれど次の瞬間、すっと影が差す。

 

 ハロルドだ。彼は大柄な体をゆるやかに傾けると、無言のまま別皿に乗せた何かをアリシアの前に置いた。

 

「……?」

 

 首を傾げていると、マティルダが解説する。

 

「それ、お嬢様の好きなハーブ入りのビスケット。言葉少ないけどね、あの人、けっこう見てるのよ」

「……!」

 

 驚いたようにアリシアはハロルドを見た。彼は何も言わない。ただ、厨房の奥へと戻ろうとしている。その背中に、アリシアはふわりと笑みを浮かべた。

 

「ありがとう……」

 

 そのひと言に、今度のハロルドは不器用に、わずかに顎を引いた。

 

 香ばしい甘さは、なおも室内に広がり続ける。

 きっとこの味は、過去の誰かの愛情のかたちなのだろう。

 そして今、それはアリシアの手によって、この家に再び息を吹き返したのだ。

 

 

 

 

 ティールームでは、家族だけのささやかなお茶会が開かれていた。

 よく冷やされたオレンジと蜂蜜のタルトと、マティルダとハロルドが包んでくれた焼き菓子が並べられている。

 

 タルトに最初に手を伸ばしたのは、弟のアーサーだった。勢いよくタルトをぱくりと頬張る。

 

「あまい! けどすっぱい! でも、おいしー!」

 

 無邪気な叫びが室内に弾け、花が咲くように笑い声が広がった。

 

 レティシアはそっとフォークを取り、アリシアの焼いたタルトをひと口。

 ふわりと目を見開き、頬が明るく染まってゆくのがわかった。

 

「まあ……まあっ……! アリシア……これ、本当にあなたが作ったの?」

「はい。マティルダとハロルドに手伝ってもらって」

 

 そう答えると、レティシアはうっとりともう一度味わうように、フォークを口に運んだ。

 

「とっても美味しいわ!」

 

 声には誇らしさと心からの賞賛に満ちていた。

 娘の手で作られた菓子を、こうして笑顔で食べる日が来るとは。

 

「さすがは私の娘ね。味だけじゃないのよ……このタルトには、あなたの真心が込められているのね」

 

 そうしてレティシアは娘の手を包むようにそっと握った。

 アリシアは照れたようにうつむいたが、母の手の温もりが、ゆっくりと胸の奥へ染みこんでくるのを感じていた。

 

 そして父であるオスカーも、黙ってタルトをひと口、味わった。

 

「……うん。美味しいな」

 

 それだけの言葉。けれどそれこそが彼にとって最大限の賛辞であると、アリシアにはもうわかっていた。

 父が口にするそのひと言は、どんな詩より雄弁なのである。

 

 夏の陽が、ティーカップにきらりと滲む。

 そのきらめきに似たものが、アリシアの胸にも宿っていた。

 

 

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