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4-1.夏の柔らかな日々(上)

 

 

 レイモンド家に訪れた春は、至極おだやかなものであった。

 

 アリシアはアーサーと並んで、小さな花の成長を見守った。新たな苗を土に植えたりもした。

 メイドたちとも少しずつ言葉を交わすようになった。サラとリナに連れられ、他の使用人たちを紹介されては、その名をひとりひとり、迷いなく呼び当ててみせる。

 驚きと喜びに満ちた彼らの笑顔が、アリシアの胸に、やわらかく灯をともした。

 刺繍や読書、誰かの古い日記をめくるような午後もあった。

 

 そうした日々のすべてが、春の芽吹きのように、心をやさしくほぐしていった。

 

 

 やがて季節はめぐり、夏の気配が空気の端に滲み始める。

 

 陽射しは強まり、庭の花々はしっかりと根を張って、瑞々しい葉を空へと掲げていた。

 窓辺のカーテンをふわりと揺らす風は、どこか柑橘を思わせる青さを運んでくる。

 

 朝早くから囀る小鳥たちの声に、湿り気を含んだ空気。

 それでも不思議と、胸の奥は軽かった。かつてのような重たい沈黙は、もうない。

 

 アリシアの周囲でも、目に見えぬ変化が形になり始めていた。

 新しい季節が、新しい日々を確かに連れてきていた。

 

 

 

 

 朝の光が差し込む中、アリシアは厨房の扉の前に立った。

 

 この間、書庫で偶然見つけた一冊の古いレシピ帳──そこに記されていた、何代か前の侯爵夫人の手による「オレンジと蜂蜜のタルト」。華やかでいて、どこか懐かしいその名前に心惹かれて、どうしても自分の手で作ってみたくなったのだ。

 

「……あの、お菓子作りを教えてもらいたいのです」

 

 遠慮がちにかけた声に、奥からがたん、と乾いた音が響いた。

 まもなく、湯気と香辛料の混じる空気をまといながら、一人の女性が現れる。

 

 マティルダ──レイモンド家の厨房に長く携わる料理長。

 腕には細かな火傷の痕が散り、少し赤くなった指先は、パンの生地を幾度となくこねた時間を物語っている。

 丸みを帯びた体には、洗いざらしのエプロン。胸元には小麦粉がほのかに舞い、額には滲む汗を拭った跡があった。

 厳格というより豪快で、けれどどこか母性のような温もりをまとったその佇まいに、アリシアは自然と背筋を伸ばす。

 

「こりゃあまた、珍しいお客様が来たもんですねえ」

 

 彼女の瞳に驚きと、それを超えた好奇心のような光が宿る。

 

「はい。作ってみたいものがあって……」

 

 アリシアが微笑んで答えると、マティルダの表情にふっとやわらかな光が差した。

 そのまま、大げさなくらい腰に手を当て、愉快そうな笑い声を響かせる。

 

「まったく。春からこっち、レイモンド家には嵐でも吹き込んだみたいですよ。……ま、いい風ってやつかね」

「……ごめんなさい。急に押しかけてしまって」

「何をおっしゃる。暇なときならいつでも大歓迎ですよ、ってそれじゃいつでもじゃないか」

 

 そう言ってマティルダは豪快に笑う。

 それから棚の奥から大きなボウルを取り出し、木べらを片手に手際よく粉の袋を運んできてくれた。

 その手つきはとても頼もしいものだ。

 

「それで、作りたいものって?」

「あの……これを……」

 

 アリシアはそっと、持参していた紙片を差し出した。古びたレシピの端はわずかに黄ばみ、ところどころに年月を感じさせる染みが残っている。筆跡は、優美で少し気難しげな古風な筆遣いだった。

 

「なるほどねえ……こりゃまた古いもんを持ち出してきたね。──任せておきな」

 

 そして、紙片から視線を戻し、アリシアを見つめる。

 

「さあ、お嬢様。まずは小麦粉と砂糖を正しく量るところから始めよう。菓子はね、間違えると容赦してくれないから」

「はい!」

 

 差し出されたエプロンを胸にあて、アリシアは軽く膝を折って受け取った。

 慣れない動作で布を巻き、真新しい手つきで粉袋へと手を伸ばす。慎重すぎるほど慎重に、計量皿に小麦粉を落とす彼女の横顔は、どこか誇らしげですらあった。

 

 そのとき──厨房の一角、影のように静かに動いていたひとりの男が、ぬっと脇に現れた。

 大柄な体躯に色褪せた白の作業着、髭をたくわえた口元に、彫りの深い眼差しを隠すような前髪。

 ハロルド。この厨房でもっとも寡黙で、もっとも職人気質な副料理長だ。

 ほとんどの者にとって、彼の印象は無口で怖い人だと統一されていた。

 

 彼は何も言わなかった。

 ただ、アリシアが手にしたボウルが傾きかけたのを見て、無言のまま手を添えた。

 

 その手のひらは大きく、無骨で、鍋の火にさらされてきた年月の荒れがあった。

 けれどその重みは、どこまでもやさしかった。

 

 はっとして顔を上げたアリシアの視線と、彼の無表情な横顔が一瞬だけ交錯する。

 

「ありがとう、ハロルド」

 

 その言葉に、彼はやはり何も返さなかった。

 けれどそのまま数歩後ろへ下がり、気にするなとでも言うように、玉ねぎを刻み始めた。

 きっと彼にとって、それが最大限の挨拶なのだろう。

 

 厨房には、やがて温かな音が満ちていく。

 粉をふるう音、果皮を削る音、タルト生地を練るアリシアの息づかい。

 マティルダの指導は厳しくも的確で、手元に注がれる視線には確かな信頼があった。

 

「そうそう、バターは焦らせちゃいけないよ。気難しいんだから、ゆっくり機嫌をとるのがコツさ」

 

 小さなヘラで練ったバターを指に取り、アリシアがこくりと頷く。

 冷たい指先と柔らかな油脂が混ざり合い、生地に命が宿ってゆく。

 

 生地が落ち着くのを待つ間、ふたりはレシピ帳の空白に思い出話を綴るように話をして、やがてオーブンが温まると、整えたタルト型をそっと中へと差し入れる。

 

 扉が閉まり熱がまわり始めていく様子を、アリシアは胸を高鳴らせながら見つめていた。

 

 

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