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3-3.春の手に残るもの(下)

 

 

 それから、アリシアは庭に出た。

 芝の上を、軽く裾を摘まみながら歩く。陽射しはやわらかく、空は澄み切っている。

 

 彼女が探していたのは、庭師長のグレゴリーだった。

 大きな帽子をかぶり、深く刻まれた皺の中に穏やかな眼差しを持つ老庭師。レイモンド家の庭を数十年守ってきた人物であり、草花をわが子のように世話するその姿は、まるで季節と語らう精霊のようだった。

 

「グレゴリー」

「……お嬢様? いかがなさいました?」

 

 グレゴリーは鋏を持つ手を止め、驚いたように振り返った。

 

「あの……庭仕事、少しだけ、お手伝いさせていただけないかしら?」

 

 そのひと言に、グレゴリーは明らかに動揺した。

 目を白黒させ、口ごもる。

 

「お、お嬢様が……ですか? そ、それは、いえ、そのようなご無理を──」

「無理ではないの。むしろ、お願いしたいのです。土に触れて、花を育ててみたくて」

 

 アリシアはまっすぐにそう言った。

 戸惑う庭師を安心させるように微笑む。彼女が引かないことを悟ると、グレゴリーは渋々といった様子で道具を貸してくれた。

 

 彼女の手袋で覆われた手にあるのは、真新しい小さなスコップ。その手つきには、不思議な決意が宿っていた。

 

 ふわりと鼻先をかすめたのは、湿った土と草の匂い。膝をついて、伸びすぎた雑草を抜き、枯れかけた葉を摘み取る。

 太陽の光を浴びながら丁寧に土を耕し、グレゴリーに教えを乞うてひとつひとつ手を動かす。

 

 幼い頃から園芸の本は読んでいた。花の名前も、特性も、理想の育て方も、教養として学んできた。

 けれど、土に触れたことはなかった。

 この庭のどの花も、美しい飾りであって、育てるものではなかったのだ。

 

 ──だが本当は、この手で土に触れてみたかった。

 

 額には汗が滲む。ひと筋、耳のうしろを伝った滴が、首筋に触れてひやりとした。

 そのすべてが、生きている証のように思えた。

 

 

 一段落ついたところで、アリシアは庭の中に弟の姿を見つける。

 

 やわらかな陽を浴びながら、アーサーは蝶を追いかけていた。

 風に揺れる金色の髪が、ひとひらの花のようにふわりと踊っている。

 

 その傍らでは、専属のナニーであるマーガレットが微笑を湛えて見守っている。

 

 マーガレットはこの家に仕える古株のひとりであり、アリシアが幼い頃には寝かしつけも読み聞かせもしてくれた人物だった。

 今では弟の世話にかかりきりで、アリシアとは自然と距離ができていたが、今朝の食卓にはアーサーとともにその姿があった。

 

「アーサー、見て。このお花……もうすぐ咲くわよ」

 

 呼びかけると、アーサーはぱっと顔を上げて、蝶を忘れたように駆け寄ってきた。

 その無垢な瞳が、姉の指差す先を追って、ふくらんだ蕾をまじまじと覗き込む。

 

「わぁ、これ? もーすぐ、おはな、ひらくの?」

「きっとそうよ。だから、一緒にお水をあげましょう」

 

 そっと弟の手を取って、小さなジョウロを握らせる。

 手のひらが重なり、水が細く流れ落ちて、乾いた土を濡らしていく。

 

 少し離れた場所で、グレゴリーとマーガレットが並んで立ち、ふたりを静かに見つめている。

 家族の時間が、確かに今、根を張ろうとしていることを見届けるように。

 

 

 

 

 さらにその様子を屋敷の高窓から静かに見下ろしていたのは、侍女のグレイスと、執事であるクラレンスだった。

 

 庭の片隅、ふたつの影が膝をつき、土に触れている。

 ひときわやわらかい陽の射す場所で、アリシアは幼い弟と寄り添い、水をやり、蕾に指を添えていた。

 

「……ご覧になりましたか、クラレンス様」

 

 先に口を開いたのはグレイスだった。

 その声音には、驚きというより、どこか確信めいた安堵があった。

 視線はまだ、ひたと庭に注がれている。

 

「ええ。……お嬢様が、あのような場所におられるとは」

 

 クラレンスの応えは、控えめな驚きを含みながらも、決して否定的ではなかった。

 土に膝をついて手を汚すなど、あの方には似つかわしくない──かつてなら、そう即断しただろう。

 けれど今、その手が泥に触れ、蕾を支え、命に水を注ぐ様子を目にして、ふたりとも不思議と違和感を覚えていなかった。

 

「……ほんの少し、風向きが変わったように感じますわ」

 

 グレイスの言葉にクラレンスはわずかに眉を上げ、そして静かに頷く。

 小さな風が、どこかの枝を揺らすだけのことかもしれない。けれどそのささやかな動きが、気づかぬうちに空気を変えることがある。

 

「もう、すっかり春ですね」

 

 そっとこぼされたそのひと言にクラレンスは目を細め、ふと窓越しの空を仰ぐ。

 春の陽気が、あたたかく射し込んできていた。

 

 

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