3-2.春の手に残るもの(中)
「えっ、えっと、あのあのっ、あのっ!」
混乱したサラが、勢いそのままにアリシアの方へずいと身を乗り出す。
圧に押されて、アリシアは無意識に半歩、後ずさった。
「お、お嬢様っ……! あたしたちの名前……ご存知で、いらっしゃるのですかっ!?」
胸の前で両手をぎゅっと組みしめ、信じがたいものを見るようなまなざしで、サラは熱っぽく見つめてくる。
その横で、控えめなリナも何度も何度も頷いている。ふたりの瞳はそろって、感動を濃密に含んだ光を宿していた。
──まったく、と言いたげに、デボラが静かに息を吐く。叱責を受けたばかりのメイドがこれでは、さぞ頭の痛いことだろう。
「え、ええ……こちらで働いてくださっている方々のことは、もちろん……」
アリシアは、たじろぎながらもそう応じた。
「ほ、本当ですかあ!? だ、だって、ここは侯爵家ですよ!? いったい何人の使用人が働いてると思ってるんですかっ!?」
「その、たくさん……たくさんいらっしゃるのに、全部……?」
なおも距離を詰めながら詰め寄る二人に、アリシアは少しずつ後ずさりながら、小さく頷いた。
レイモンド家のような広大な邸宅では、執事から厨房や洗濯係、庭師に至るまで数えきれない人々が働いている。
そのすべての顔と名前を覚える必要など、本来はどこにもない。上級使用人ならまだしも、サラやリナのような下級ハウスメイドの名まで記憶する貴族令嬢など、聞いたことがないだろう。
だがアリシアは──覚えていた。前の人生から、すべてを。
かつて、彼女は完璧な令嬢であることを求められ、その通りにふるまった。
階級の違いを示しすぎてもいけないが、無用に親しくなることもまた戒められた。
だからこそ、たとえ心の中でひとりひとりを気にかけていても、それを表に出すことはなかった。
けれど今の彼女は、言葉にすることを恐れずにいられた。
「あたしなんか、お嬢様くらいの歳の頃は、自分の妹の名前すらよく間違えてましたよぉ!」
サラが笑いながら言うと、リナも「本当にすごいです……」と小さな声で囁く。
ふたつの澄んだ瞳が、今や完全に尊敬の色に染まっている。
自分たちの名前を知っていてくれたというその事実だけで、心ごと抱きしめられたような、そんな顔をしていた。
やがて埒が明かないとばかりに、デボラは眉をひそめて小さく息を吐いた。そうして、手をぱん、ぱん、と軽く二度打つ。
「──ほら、二人とも。さっさと持ち場に戻りなさい。またあとで、ゆっくりお説教いたしますからね」
「えっ……」
「そ、そんなぁ~……」
サラとリナは肩を落としながら、それでも最後の最後まで名残惜しそうにアリシアを振り返った。
アリシアはふふっと笑い、小さく手を振ってみせる。
まるで舞踏会で別れを告げるような優雅な所作に、ふたりは再び感激の色を浮かべていたが──
「──お嬢様。あまり、あの子たちを甘やかさないでくださいませよ」
デボラが鋭く眼差しを送ってきた。長年この屋敷を取り仕切ってきた者らしい、くっきりとした声音だった。
「ごめんなさい。邪魔をしてしまったわね。でも……叱ってくださって、ありがとう。私のことを思ってのことだったのでしょう?」
アリシアが素直に礼を述べると、デボラは一瞬だけ、意外そうに目を丸くした。
けれどすぐに、その顔にうっすらと笑みが差す。
「まあ。……なんだか、今日はよいことでもあったのですか? お顔が、とても晴れやかでいらっしゃいます」
そう言われて、アリシアは少しだけ恥ずかしくなった。そこまでわかりやすく振る舞っていたつもりはなかったけれど、きっと、顔に出てしまっていたのだろう。
「ううん……これから──よいことを、たくさん見つけてみようと思って」
その言葉に、デボラは一瞬まばたきしたあと、深く頷いた。
「……それは、とても素晴らしいお考えかと存じます」
それでは、と頭を下げた後、微笑みを残してデボラは去っていった。
彼女の足音は、廊下の奥へすうっと消えてゆく。
残されたアリシアの心は、まだ浮き足立っていた。
前の人生では、ずっと遠慮していた。
ふさわしくない、身分に見合わない、そう思って踏み出せなかった数々のこと。
(……こうなったら、やらなかったことを。思いつく限りすべて、やってみよう)
きゅっと胸の奥で、何かが結ばれるような音がした。




