3-1.春の手に残るもの(上)
父の執務室をあとにしたアリシアは、地に足がついていないような気分で、廊下をゆっくりと歩いていた。
自由だ、と思った。
この先の人生はまだ白紙で、何を描くかはこれから決めればいい。それが不安でないと言えば嘘になる。けれど頭の先から爪の先まで、まるで春の陽だまりに包まれるような達成感が宿っていた。
自分の意思で歩けるというだけで、世界の見え方が新鮮に変わっている気がした。
そんな余韻をまといながら廊下を曲がった、そのときだった。
「メイドたるもの、お仕えする方々を煩わせるようなことがあってはなりません!」
高く、鋭く、張り詰めた声が反響した。
それは空気の温度を一瞬で変えるほどの威圧を帯びていた。
反射的に足が止まる。
視線を向けた先、そこにいたのは──年齢を感じさせぬ背筋の伸びた立ち姿に、ぴしりと結い上げられた銀灰の髪。
まなざしに一点の揺らぎもない彼女の名は、マダム・デボラ。侯爵家の古参にして、誰よりも格式を重んじ、誰よりも容赦ない──泣く子も黙る総メイド長である。
そして今、その前で縮こまっているのは──今朝、アリシアの部屋に朝の支度に来ていたふたりの若いハウスメイドたち。
溌剌とした笑顔が印象的だったサラと、おっとりとした物腰のリナ。
だがそのときの彼女たちの姿は、まるで別人のように萎縮していた。
「う、ううっ……でもぉ、お嬢様が……!」
「……あんなふうに、泣いてらしたから……わたしたち、心配で……」
怯えながらも強かな声が廊下に広がっていく。ひとつは掠れた嗚咽混じり、もうひとつは泣き出しそうな囁き。
けれど、デボラはそれに絆されることはない。
「言い訳をするのではありません!」
彼女の声は金属のように冷たく、容赦なく響いた。
そのひと言で、ふたりの肩がびくりと揺れる。壁際で身を寄せ合うメイドたちの影は、立ちすくむ子猫のようだった。
(……まさか、今朝のことを、叱責されているの……?)
朝の出来事──自室で泣き崩れたあの一幕は、確かに己の感情が溢れ出た結果だった。心配して駆け寄ったふたりの姿を、彼女は覚えている。
けれど、その心尽くしが騒ぎと受け取られ、こうして咎められているのだとしたら。
(あれは……私の責任でもあるわ)
グレイスがメイド長に報告したのかもしれない。確かに、あのときの彼女は過剰な反応を苦々しく思っていたようだったし、職務として管理の手が入るのは理解できる。
だが──それでも、どうしても気になってしまった。
意を決し、歩み寄る。
「……あの、デボラ。そのくらいにしてくださらないかしら」
たおやかな声音は少女のものでありながら、しかし芯のある張りを持っていた。
背を正し、アリシアが一歩進み出ると、その場の空気がわずかに揺れた。
デボラが、はっとして振り返る。
そして、すぐに態度を改めた。
「……これはお嬢様。ご機嫌麗しゅうございます」
まるで糸を引くように深々と優雅な一礼。
つい先ほどまで鋭利な刃物のようだった声音は、あっという間に絹の手触りへと変わっていた。
対するメイドたち──サラとリナはというと、ぽかんと口を開け、アリシアの姿を見つめて固まっている。
「サラとリナも、悪気があったわけではないと思うの。……そうでしょう?」
微笑みを湛えたまま、アリシアが静かに言葉を紡いだ。
「えっ……!?」
「っ……!」
サラは素っ頓狂な声をあげて目を見開き、リナは息を呑んだまま動けなくなる。
自分の名前が主の口から発せられるなど夢にも思っていなかったかのようだった。




