序-1.春はまだ遠く、されど(上)
「ねえ、姉様。なにかお話して」
眠れない夜だった。
弟のアーサーがなかなか寝付かず、アリシアから離れようとしなかったので、彼女はそばに寄り添っていた。
まだ幼い丸みを帯びたふたつの瞳が、布団の中からじっとアリシアを見つめてくる。
「いいわ。どんなお話がいい?」
「うーん……姉様が好きなの!」
「そうね……じゃあ、こんなお話はどうかしら」
アリシアはそっと目を閉じ、ひそやかに語り始めた。
「むかしむかし──“幸福の鏡”と呼ばれる、不思議な鏡があったのよ」
「ほんとに?」
「ええ。でも今はもう、誰もその鏡のありかを知らないの。失われて、忘れられてしまったのよ。……ただ、こんなふうに語り継がれているわ」
それは、見る者の“いちばん幸福だった瞬間”を映す鏡だった。
どんなに悲しみに沈んだ人も、どれほど絶望の中にある人も──その鏡をのぞけば、ただ一度だけ、まばゆい笑顔を取り戻すことができたという。
けれどある日、鏡に映らない少女があらわれた。
「その子はね、それから何度も鏡の前に立っても、一度も映らなかったの。周りの人はみんな、自分の幸福な姿が見えたのに……彼女だけは、ずっと何も」
「なんで?」
「たとえば……彼女の思う“幸福”が、ほかの人とは少し違っていたのかもしれないわね」
彼女は毎日他の人たちの笑顔を見つめながら、鏡の中に自分の姿を探し続けた。
けれど──鏡は、いつまでも彼女を映さなかった。
鏡はただ、他人の幸福だけを映し出し、彼女をすり抜けていった。
「……それでも、その子は笑っていたのよ。鏡の前で、ずっと」
「ずっと笑えるなら……それは、幸せだったんじゃないの?」
「そうね……そうかもしれないわ。けれど、周りの人はそうは思わなかった。鏡に映らないっていう、それだけの理由で」
そんなある日、前触れもなく──鏡は割れた。
音もなく、静かに。まるで世界がそっと息を止めたかのように。
そのひとつひとつの欠片に、これまで映してきた無数の幸福が閉じ込められていた。どんな幸福も、手を伸ばせばすぐに届いてしまいそうだった。
けれど、少女が拾い上げたのは──何も映っていない、ただの透明なかけらだった。
「彼女はそれを抱えて、こう言ったの。『わたしは、この胸にこそ灯る幸福を信じるわ』って」
そして少女は、どこかの世界に旅立っていった。
鏡に映らなくてもいい。人の言葉など気にせずに、己の手で選んだ光こそがきっと本当の幸福だと信じて。
アーサーはまどろみの中で、その話をじっと聞いていた。
「……その子、ひとりなの?」
「いいえ。きっとその先で出会うのよ。彼女のことを、ちゃんと見てくれる人に──」
アリシアはそっとその髪を撫でながら、囁くように語り終える。
アーサーの額はあたたかく、呼吸はすでに深まり──やがて重たいまぶたが瞳を隠して、静かな寝息が聞こえてきた。
そんな弟のやすらかな寝顔を、少しだけ見つめたあと。
アリシアはそっと唇を噛みしめて、窓の外を見上げた。
──アリシアが、エドワードに婚約解消を告げられた、その夜のことだった。
彼の心に映れなかったその訳を、誰も教えてはくれなかった。
*
王太子である第一王子エドワード・フォン・グラティアが、婚約者アリシア・レイモンドとの関係を解消することを選んだ。
そしてクラリッサ・メイベルという一人の令嬢を、新たな婚約者として据えた。
婚約解消を打診された翌日から、アリシアは自室の扉を閉ざしたまま、誰の訪れも受け入れなかった。
それでも彼女の家族は、来る日も来る日もアリシアへ声をかけ続けた。
父は重い靴音を響かせて扉の前に立ち、低く、しかし必死に呼びかける。
「アリシア。どうかお前の話を聞かせておくれ」
母はできたての焼き菓子を持って、そっと扉の向こうへ語りかけた。
「お腹が空いたでしょう、アリシア……。少しでいいから、何か食べたほうがいいわ」
幼い弟は小さな手で折った手紙を、扉の下の隙間から滑り込ませた。
ただ一言──「姉様、お話しよう?」と。
だが、アリシアの返事はなかった。
部屋の内側には、ひとりきりの静けさがあった。
それは孤独というよりも、耐え難い痛みの膜で包まれた沈黙だった。
──見られたくなかったのだ。
いかに深く傷つき、絶望に沈んでいるかを。
──知られたくなかったのだ。
その胸の奥底に、どろりと沈殿する醜い感情を。
だからアリシアは、ひとりで耐えることを選んでしまった。
この苦しみは、誰とも──たとえ家族であっても分かち合えないと、そう信じた。そうでなければ、やりきれなかった。
数日後、アリシアは北の地でたったひとりで命を絶った。
公的な追悼はなく、王家にのみひっそりと伝えられた事実ではあったが──時が経つごとに、それはエドワードの失態とクラリッサの策略より引き起こされた事件として広まった。
やがてエドワードは幽閉され、クラリッサは罪を問われて牢に繋がれたのだった。
その次の年、春が来なかった。
王都は例年になく寒く、雪解けは遅れ、木々の蕾は固いままだった。
レイモンド家の屋敷の窓辺にも、花はひとつも咲かなかった。アリシアが愛した花壇には、凍った土だけが広がっていた。
少女がいなくなった日。
その朝、彼女の部屋で家族に宛てられた手紙を見つけた。
言葉は淡々と綴られ、行き先は北の館と記されていた。
駆けつけたときには、すべてが終わっていた。
アリシアは冷たい床の上に転がっていた。
喉元に突き立てられた鋭いナイフ。そこには迷いなど、ひとつもないようだった。
それこそが、レイモンド家を深く叩きのめした。家族の誰ひとりとして、彼女を現世に留める錨にはなれなかったのだ、と。
父であるオスカーは、何も言わなかった。
あの日からずっと、アリシアの部屋の扉を閉ざし、毎朝その前に立ち尽くしていた。
母であるレティシアはあの花壇に花を植えようとしたが、土に触れられなかった。
庭に出るたびに手が震え、膝が崩れ、ただ地面に手をついて、そっと祈るように泣いた。
弟のアーサーですら、幼い心で己のことを責めていた。
ある日、彼はぽつりと両親に尋ねた。
「姉様……どうして、ひとりで行っちゃったの?」
その問いに、オスカーもレティシアも答えられなかった。
言葉が冷えた屋敷の壁に跳ね返るだけだった。
その問いは何度も、彼らが夢の中で娘に呼びかけているものだった。
けれど彼女はいつも少し微笑んで、遠くを見つめたまま振り返ることはなかった。
アーサーは当時7歳、アリシアは18歳くらいです。