6 月下に無限を求めて(3)
三十秒ぐらい、そのまま静止していた。
もはや音は何も聞こえない。
なんとか目は開いてはいたものの、そこから入ってきた一切の情報は、頭の中で処理されずに捨てさられていた。
ただ、落下という恐怖との闘いが、長谷川の頭の中で繰り広げられている。
時々、恐怖に負けて頭を下げてしまいそうになるが、わずかに残った自制心で抑える。
下――遥かな地底を見たら、その瞬間に心が折れ、きっと落ちてしまうだろう。
落ちたら――死ぬ。
声を上げたくなる。
足が震えてくる。
震える足下からは、パラパラと小さな石が零れ落ちていく。
自分も――この石のように――。
今まで夜の青色を反射して鈍く光っていた壁は、いつの間にか有彩色を失っていた。
現実感はとうに喪われている。
あれほど遠かった地面が、今は足を伸ばせば届きそうに思えたし、ジャンプして羽ばたけば、地上にも飛び出せるような気がした。
混乱の度合いは更に高まる。
色彩、距離、高低、重力、温度、空気、音、光、物、空間。
この世を構成する全ての概念が行列を作り、そして行儀よく長谷川の世界から消え失せた。
時間。今は時間と長谷川だけが、この世界には存在している。
ふと気づくと、その様子を遠くから眺めている自分がいる。
彼は冷静に、落ちたら、死ぬ。
――つまりもうすぐこの長谷川勝彦の世界自体が消失することを認識している。
そして、パニックになっている長谷川を眺めて
――もうこれはダメだな。と客観的に判断していた。
――手から力が抜けていく。
――もうこんなことは止めたい。
落ちても、ひょっとしたら死なないかもしれないじゃないか。
こんなリスクなんか負いたくない。
だから逆に――手を――離したくなる。
手がついに力を失おうとする瞬間、ふと洞窟内が暗くなる。
月に雲がかかったのだろうか。
光を失ったことにより、長谷川は光の概念を再認識する。
そして、急に視界を奪われたためか、他の神経が活動を再開し始めた。
――ハセガワ。
何かが聞こえる。
――長谷川
亮月の声だ。長谷川はそれに反応して顔をあげる。
もちろん亮月の方を向くことなどはできなかったが――。
――落ちるな、とでも言うのだろうか。
それが出来れば苦労はしない。
励ますにしても、効果があるとは思えなかった。所詮はひとりなのだ。
誰がどこにいようと、この状態から長谷川を救うようなことはできない。そう思った。
実際、長谷川にはこれほど論理立てて考える余裕はなかったが、その場の心情としてそう感じた。
しかし
その後亮月の放った言葉は想像とは少し違うものだった。
「長谷川。お前落ちるんなら、少しでも登ってから落ちろ」
――なんという冷酷な声
――酷いやつだな。場違いに頬が緩む。
――あいつ、登る前は「絶対落ちるな」とか言ってたくせに。
よっぽど、何か言い返してやろうかと思ったが、その前にすっと息をつき、長谷川は空気を取り込む。それと同時に頭の中を熱くドロドロと巡り回っていた血が、どろりと首を伝わって胴内まで流れ落ちていく。
視界が戻り、目の前を覆っていた闇が消えていく。また月が姿を見せ始めたらしい。
岩肌の感覚が戻ってくる。いつの間にか恐怖心は薄れていた。
――自分はそれほど絶望的な状態じゃない。
そう感じはじめた。状態自体は何も変わっていないというのに。
――なるほど、状態は良いも悪いも自分次第か。
そう思っていると下からもう一度、声がかかる。
――長谷川
今度は、微かに声が震えてるように聞こえた。
そういえば、言い返してやるのを忘れていた。
だが、長谷川はそれは行わず、自分の心にもっとも素直な言葉を選択した。
――もう――大丈夫だよ。ありがとう。
そう答えて改めて上を見上げる。
今度はちゃんと見えていた。