4 虚室、光は地に溶けて、無中に探す活路(8)
ジ、ジと火の勢いが徐々に弱まっていく。
少しでも風に吹かれたら、儚く消えてしまいそうなほど小さな炎が、長谷川たちの周りを球状にほんの僅かに照らしている。しかしそれも、ゆっくりとその半径を狭めていく。
「消える……」
長谷川がポツリと言うのと同時に、炎は最後の背伸びをするかのように上に伸びる。
そして――消滅した。
それを待っていたかのように、この世の全ての黒が押し詰められたかのような闇が、今まで火で照らされていた空間の全てを包み込んだ。
もう――何も見えなかった。
視界には黒色しか映し出されていない。
段々と目の感覚が失われていく。
もはや、まぶたが開いているのかどうかすら分からない。
そうして、完全に目の働きが失われた後、何か流れるような映像が見えてくる。
――水?
水が見える。ボンヤリと水の流れる映像が、目の網膜を通さないまま、脳内に描かれる。
画材は――音だった。
川の流れる音が、長谷川の頭に水を想起させる。
次に鼻にツンという刺激がして、黄色いような赤いような色が、カンバスにばら蒔かれる。
匂いだった。
蝋の溶けた嫌な匂いが辺りに充満している。
すっと手に皮膚の感覚が伝わる。その冷たい感覚に長谷川の手は少し震える。
誰の手だろうか。小さい、頼りない、心細さが伝わってくるような手のひら。
長谷川は思わず、手を握り返す。
そうして長谷川は俯瞰する。
今、ここにいる三人だけが、巨大なブラックホールの中に、孤立して存在していた。
他の全ての空間から隔離され、全ての世界から取り残されて。
こんな中をこの空間は生き続けていたのだ。百年、二百年、――ひょっとすると二千年以上も――このままだった。
一度も満足に日の光を浴びることなく、ただ、この真っ暗な闇の中、ジッとうずくまるように。
長谷川はすっと息を吐く。
完全な無光の時間。この中では、空間が確かに生きていることを感じられた。
まるで、呼吸のように洞窟の天井を吹き抜ける風の音。
血流のように流れる地下水の音。
この空間に飲み込まれるかのように――
この空間に同化するように――
長谷川達もこのまま生きなければならないのだろうか。
繋がれていた手がぴくりと動く。
そして――小刻みに震え始める。
「亮月」
声がする。
――手の震えは止まらない。
亮月、ともう一度声がした。
有坂の声だった。
長谷川の反対側で――彼女も手を握っているのだろうか。
彼女は諭すように話し始める。
「今、私たちはこの洞窟に閉じ込められて、ヘタをすると外に出られないかもしれない。この状態は悪い状態だと思う?」
有坂はそう問う。
その問いに――長谷川の隣にいる彼女は――振り絞るように声を出す。
「悪い――です。これも私が――」
「悪いと言うのは何と比べて悪いの?」
詰問するようでもなく、優しく言うわけでもなく――いつもの平坦な調子でそう言う。
「なにと――? 普段の、いつもの日常と比べて――」
「じゃあ、いつもの日常って、良い状態なの?」
「良い――というか、普通の――」
亮月はそこで言葉を区切る。そして一度何かを飲み込む。有坂がその言葉を引き継いだ。
「平和で平凡だけど何もない。それが普通の状態。でも今と比べるとぜんぜん良い」
見えないが――亮月はその言葉に頷いたようだった。
「それはきっと違うとおもう」
「違う?」
有坂の言葉に思わず反応したのは長谷川だった。
「亮月は、日常の状態を『悪い状態』だと思ってる」
彼女はそう断じた。
何故か――何故か既に真っ暗な空間がその瞬間、より一層黒の濃さを増した気がした。
そんなこと――亮月は言う。
「そんなことないと思います。いつも楽しいし」
ふっと有坂が息を吐く。
「それなのに、いつもトラブルを探して――ってちょっと酷いかな、ゴメン。まあ、何か事件を探して持ってくるの?」
「それは――なんというか」
「亮月にとって『良い状態』ってなに?」
「なんというか――みんなが楽しく笑いあってるみたいな――抽象的だけど」
「じゃあさ、今みんなで笑いあえたら? それって良い状態なの?」
「それは――良くないですよ。どう見ても、相対的――というか」
「相対――」
そう言って、有坂は言葉を切る。何か満足の行く答えを得たらしい。
長谷川は息を呑む。
どうやら本題に入るらしい。
「私はこの状態は悪い状態じゃないと思う」
「この最悪な状態が? ひょっとすると――死ぬ――かもしれないのに」
死ぬかもしれないのにね、有坂は自嘲的に亮月の言葉を繰り返す。
「きっと、状態には『良い』も『悪い』も無いんだよ」
「良いも、悪いも?」
「絶対的にはね。――例えば、亮月が珍しく勉強をして中間テストに臨んだ。ヤマは百パーセントカンペキに当たって、高得点はマチガイなし。こんなときに、――まあ落雷かなんかがあったんだろうね。急に停電になってテストが中止になった。どう思う?」
「最悪――ですね」
それは最悪だと長谷川も思う。もっとも亮月はそれほど勉強しない質でも無いらしいので、そこだけは訂正してはどうかと思ったが。
「翻って長谷川君」
急に名前を呼ばれて、長谷川はびくっとする。
「長谷川君は亮月と同じクラスだったよね。長谷川君は逆に全く勉強せずにテストに臨んだ。テストはボロボロ、最悪零点だ。こんなときに停電になった。どう?」
簡単な問いだった。
「ラッキーですね。きっと日頃の行いがよ――」
「今、二人は同じ状態の中にある」
冗談を言わせてもらう時間的余裕はないらしい。
「それなのに片方はすごいラッキーだと思っていて、片方は最悪だと思ってる。これは状態自体に『良い』も『悪い』も無いと言う証左だよ」
「でも、長谷川は『勉強してなくて、テストが中止になった状態』、私は『勉強していて、テストが中止になった状態』っていう差はあるんじゃないですか」
「それ」
「それ?」
不意に同意された亮月は、きょとんとして声を上げる。
「結局、今自分に降りかかっている状態を見て、良いか悪いかを決定するのは、人間だってこと。その人間が歩んできた背景がその判断を下すの」
有坂はそう結論づけた。
結論が出たと言うことは、つまりこの話も最終局面に入ったらしい。
それなのに――一向に有坂の意図はわからなかった。
ある状態が、良質なのか悪質なのかという絶対的な基準を持たないからといって、それがなんだと言うのだろうか。
それは亮月も同じだったらしい。
「つまり――どういうことですか」
有坂は答える。
「つまり、この状態をありのままに受け入れることが――ううん、違うな」
彼女は自身の言葉を否定して言い直す。
「亮月はこの状態を悪い状態だと思ってるけど、私は思ってないってこと」
ここに至って長谷川も――漸く有坂の意図がわかる。
彼女はこう続けた。
「――だから、あんまり気にしないの」
優しい声だった。
つまり有坂は、いつもの彼女らしく、限りなく慎重に、ゆっくりと遠まわりをしながら――亮月の行動を容認したのだった。
――そうであれば。
「そうだよ」
有坂だけでは足りない。
「亮月の泣いてるところなんて見たくないよ。亮月はいつもみたいにバカやってればいいんだよ。こっちはそれ見てるだけで楽しいんだから」
長谷川は自分で言っていて、何かが違うような気がしたので無理やり軌道修正する。
「いや――結果的にこうなって、亮月が泣いてるところ見れたのも良かったけどさ。それも亮月のお陰じゃないか。だから今まで通りで良いんだって」
「――泣いてないけどな」
やっぱり何かがおかしかったらしく、亮月は不機嫌な声を上げる。
「長谷川、慰めんの下手すぎ」
しかし――それは確かにいつもの彼女の声だった。