3 夕麗 Lost In Logic (8)
部室の扉が開かれたのは、長谷川の感情から憂鬱という要素が駆逐されかかった頃の事である。
「おはよ。あれ、珍しいね。囲碁?」
いつもより妙に明るい顔で入ってきたのは有坂である。亮月はそちらの方をちらりとも見ずに答える。
「碁盤の上に碁石を打つ。囲碁以外になにがあるというのでしょうか。さあ長谷川クン、君の手番ですよ」
有坂は少し、盤面の様子を窺うと全てを把握したように笑う。
「――ああ、五目並べか。亮月が囲碁なんて打てるわけないよね」
「高等遊戯ですからね、囲碁は。亮月にはちょっと早いでしょ」
黒石をマス目に置きながら、長谷川は言う。
「なにそれ、君ら五目並べバカにしてんでしょ。はい、チェックメイト。十勝二敗」
そういって亮月は両手を上げる。長谷川は平然たる様子を装ってそれに目をやる。 内心ふつふつと屈辱が沸き上がり、今にも溢れんばかりである。――なぜ亮月なんかに、という思いが次から次へと心の中を飛び交う。その思いは遂には、長谷川の心から憂鬱を追い出し、暗黒に満ちていたその空間を赤く染め上げた。
長谷川は決して亮月をバカにしているわけではない。如何に無鉄砲に破天荒なことをやらかし続ける彼女とはいえ、彼女は彼女なりの考えがしっかりとあって、結論を導き出していることを長谷川は知っている。一緒のクラスで授業を受けていても、彼女が数学も国語も英語も意外と無難にこなしているのがわかる。つまり、頭が悪いわけでも知識が足りない訳でもないのだ。
だが――しかし――あの彼女の脳天気な表情を見てると、負けるのは恥だと思う。だけれども決して、彼女をバカにしているわけでは――ない、と長谷川は思う。
そんな思考の過程の一切を隠し、長谷川は少し悔しがった風を見せて言う。
「こんなのバッカリ強いんだよな。亮月って」
――へへ、と亮月は笑って、盤面の白石を取っていく。
「じゃあ、もう一戦やろうぜ」
――これ以上の恥は耐えられない。長谷川はどうにかして、来る一戦を回避しようと思索する。ふと部室の隅に積まれている本の一つのタイトルが目に入る。
――曰く、戦わずして勝てば一番いいとかなんとか。などと考えていると、まるで孫子が乗り移ったかのように良計が脳中の泉に湧き出す。
「僕は満足したんで、有坂さんどうですか」
――我ながら良策である、などと悦に浸っていると、当の有坂は微かに笑う。
「それより、良いお知らせがあるよ」
その言葉を聞いて、亮月が身を乗り出す。
「あ、ひょっとしてビデオのこと?」
――効果は覿面だ。……全く予想外の方向へと展開しそうだが。
「なにかあったんだ。そうでしょ」
「うん、百パーセント正解。――没収された。科学部に」
「――は?」
思いもよらない答えに戸惑うように、亮月は目をぱちくりとする。
長谷川も思わず口をはさむ。
「ちょっと待ってください。没収ってなんですか。ひょっとして、ビデオに何か写っててそれを」
有坂はまた少し笑って答える。
「長谷川君はハズレ。一週間全然何も写ってなくてさ、科学部が――もう無駄だ、返せって」
「そんな――。それのどこが良い知らせなんですか」
あからさまに落胆する長谷川に、有坂は笑ったまま首をかしげて言う。
「あれ、長谷川君わからないの。ほら――」
――これでこの問題から足を洗えるじゃん。
事もなげに二人に言う有坂に、長谷川はなるほどと納得しかけたが、もう一方の亮月は憤慨した様子を見せる。
「あ、有坂さんまだそんな考えだったんだ。ひどいなー、ほんとは何か写ってたんじゃないの」
有坂は首を横に振る。
「写ってなかった。何も、ね。ネコぐらいは写ってたよ」
「ネコ? ――またシロか」
――あいついっつも邪魔しやがって、と呟く亮月の姿を見て、有坂は訝しげな表情を浮かべる。
「シロって何? ま、こういう結果だからさ、この問題は忘れろってことだよ」
実に論理的な解答だと長谷川は思ったが、亮月は承服できなかったらしい。
「そんなの、納得できません。だってさ、神隠しだよ神隠し。このまま罪の無い子どもたちが、無為に行方ふめーになっても構わないってこと? ――長谷川」
と言って、長谷川を向く。
「なんでこっちに振るの。ううん、でもそうですね子どもたちが消えていくのを、黙ってみているわけには行かないと思います。――そういう事実があるのなら」
「――ないよね、そういう事実」
有坂に一蹴され、長谷川はそれに頷く。亮月はその様子を見て、眉を顰める。何も言わないが――頼りない奴だ、ぐらいに思われたらしいのは長谷川にも理解できた。
有坂は何故かその様子を見て頷く。
「ま、亮月がそういうのもわかってたよ。だからさ」
彼女はバッグの中から何やら長い棒のようなものを取り出す。
「なんですかそれ」
「孫の手。買ってきた」
――どういうことだ、と長谷川が思う間もなく有坂が説明を始める。
「まあ、簡単なことだよ。私たちは現在唯一の調査手段であるビデオを失った。だから、もうこれ以上の調査は難しい」
「異議あり。もっと別の方法を考えれば良いと思う」
「めんどいじゃん」
亮月の抗議はたった一言で棄却される。亮月は、うぐと唸って黙る。
――そんなことで黙るのか、と長谷川は妙に感心する。
「私たちが今持っている手がかりは、亮月の言ってた――これ、この孫の手だけだよね」
その言葉に、長谷川と亮月は黙って頷く。
「で、このままダラダラ調べても埒があかないでしょ。だからここは、この孫の手を使って積極的に討って出ようと思う」
少し要点がつかめない。長谷川は訊く。
「打って出るってどういうことですか?」
「つまりね」
有坂はそう言いながら、孫の手を長谷川に、ほいっと渡す。
「君の推理力に期待したい」
長谷川の頭に、はてなが浮かぶ。
「一気に解いちゃってよ、今回の件。今から鳥居に行ってさ」
有坂は極めて平調に、凄いことを言ってのける。長谷川が抗議の声をあげようとしたとき、亮月にぽんと背中を叩かれる。
「お、よし、それなら良いよな。頼むぜ長谷川。パパっと解いちゃえよ」
――何が良いんだかわからない。そう思うが、亮月は長谷川の方を何だか嬉しそうに見ている。
とにもかくにも、無思考、無遠慮、無鉄砲な考慮の末とは言え、亮月はこの提案に同意するらしい。
予想外の展開だが、二対一なら宜もない、と長谷川は覚悟を決める。といっても、ことがことだけに大した覚悟をする必要はなかった。ただ、念のため――わかりきったことだが――条件を確認しておこうと思った。
「もしも――ボクが何も思いつかなかったら」
「これで解散。あとはお互い不干渉ね。亮月が調べたいなら調べればいいよ。でも私は協力しない」
それは予想通りだった。