1 春、猫追い、訪ねる樫の森の家(3)
長谷川たちが居る名連という町は横浜と川崎のおよそ境に位置している、特にこれといった名所もない典型的なベッドタウンである。
だだ広い平地の上に一軒家が格子状に展開され、そのところどころには、コンビニだの個人商店だのがぽつりぽつりと点在している。高い建物といえばマンションぐらいのもので、オフィスビルなどはほとんど見かけない。
この平凡な町の中心に位置している駅には、東京と横浜の間を縦につなぐ京浜線が通っている。まず、地元の人ぐらいしか利用しないであろう鉄骨コンクリート製のつまらない駅である。
駅の前には小さな商店街が広がる。商店街といっても、アーケードもなにもない、ただの小さな店舗の集合体でしかない。駅を出ると銀行の大きな店構えや派手なパチンコ店が目をひく。
――まあ要するに何もない、ということだ。
長谷川はこの何の変哲もない面白みのない町の住民ではなく、ここから三つ隣の駅から電車通学している。高校に入学して一ヶ月程度しか経っていないものだから、いまいち、この辺りの地理がつかめていない。
特に今歩いているような、住宅の間を抜けていく小路のようなところを通っていると、右も左もわからないような状態に陥る。
そんな中を、長谷川の前を歩く少女二人は平然と進んで行く。二人ともこの町の住民なのだろう。――少なくとも亮月はそうだったはずだ。何を話しているのか、時々亮月の笑い声が上がる。
長谷川はその姿を見て不思議に思う。
――この二人はどこで知りあったのだろうか。
そうして、長谷川は今日の出来事を思い起こした。
朝のことだった。眩しいばかりの春の日差しに呼び起こされ、まぶたを開いた長谷川は、枕元の時計に手を伸ばす。
――七時。
日曜日の朝七時と言えば、予定のない健全な一般人は寝ている時間だ。
――さて、どうするか。
二度寝しようかしまいか迷っていると――だんだんとまぶたが重くなってくる。
そうして、少しうとうととしかけたとき、突然、ビービーと、まるで質の悪いモーターの駆動音のような音が室内に響く。
マナーモードのままにしていた携帯電話だった。眠気を無理やり覚まさせられたという憂鬱な気分と、誰からの電話だろう、と言う少しの期待をもって携帯を開く。
――新谷亮月
長谷川の胸に一瞬かすめた不安を的中させるかのように、亮月は電話での第一声でこう言った。
「おい、ネコ探すぞ」
形ばかりの抵抗をした後、いつものように亮月に押し切られて電話越しに首肯する。
慌てて朝食のシリアルをかきこみ、ちょうど起きてきた母親に出掛けることを伝え、集合場所である名連駅前に向かった。
駅に着くとそこで亮月とともに待っていたのが、樫森だった。長谷川と樫森は初対面だった。一見して内気とわかる樫森の挨拶は、長谷川に好感を抱かせる。
そして、お互いに簡単な自己紹介を終えたあと、内気という表現からは真反対に位置する亮月が話を進める。亮月の話を要約すると、「樫森の家のネコが昨日から帰ってこないから探す」というのが今回の目的らしかった。
要約というよりも、それが話の全てだった。
そうして、マタタビで罠を作るだのネコの集会所を漁るだのをした末に、木登りをする羽目になったわけだ。
そうして一通りの回想を終えて、長谷川は前を行く二人へと目をやる。
――やはり、亮月と樫森が一緒にいるのはおかしい。
長谷川は確信する。
二人の話が――というよりも、亮月の一方的なおしゃべりが一段落したところを見計らって、長谷川は二人の横に出る。
「二人って前から仲良かったの?」
――違うの
先に反応したのは樫森だった。樫森はまたうつむき加減になって答える。
「今日の朝、私がこの仔を探しているときに、偶然新谷さんが通りかかって――それで声をかけてもらって……。だから、仲がよかったとかそういうのじゃないの」
それを聞いた亮月が苦笑いを浮かべる。
「ひでぇ。そんな否定されたら傷つくじゃんか」
慌てたように樫森は顔を上げて、つぶらな目を丸くする。そして――また下を向く。
「ご、ごめんなさい。そういう意味じゃ」
――なかったの。樫森は本当に申し訳なさそうな姿勢で独り言のようにつぶやく。
亮月は手を頭の後ろで組んで――ま、いいけどさ。と言う。
「ジョギングしてたんだよ。そしたらさ、樫森がなんか困った顔でうろついてたから。――あ、そのときは樫森って名前も知らなかったけどな。でも、中学一緒だったから顔はわかったんだ」
「亮月ジョギングなんかしてるんだ。ダイエット?」
と訊いた後に、こういったことを女性に直截に訊くのはどうかと思ったが、亮月は特に気にした様子も無く、ダイエットじゃないぜと答えた。
「ヒマだったから」
「暇だったからってどういうことだよ。亮月ん家って暇だとジョギングすんの?」
「家は関係ないだろ。私はさ、暇だったから外に出たかったんだ。でも朝だし、うち犬飼ってないしな。だからジョギング」
亮月はわかりきってるだろ、という風な顔で答えたが、発せられる言葉は全く要領を得ていない。
「犬って何」
「ほら、犬飼ってたら散歩できるじゃん。うち犬居ないんだよ」
「犬飼ってなくても、散歩はできるけど」
「一人で散歩なんて、時間の無駄じゃん」
「無駄じゃないよ。健康にもいいし、気分転換にもなるだろ」
ふーんと亮月は納得したような表情を見せるが、説得した当の長谷川は全く会話の流れがつかめていない。
要するに亮月は今日の朝、外に出ようと思った。その時間帯に外に出てやることといえば、ジョギングか散歩が相場だ。しかし、亮月の家は犬を飼っていないし、一人で散歩するのもなんとなく時間の無駄に思えたので、ジョギングをした。
多分、そういうことなんだと理解した。というよりも、それ以上、亮月の思考回路をトレースするのは無駄に思えたので、一般人である自分に理解できる範疇に収まる程度の論理展開に落としこんだ上で、思考を停止させたというのが正確だった。
そうこうしているうちに、三人はT字路にぶち当たる。それと同時に、判を押したように立ち並んでいた小さな一軒家の列が途絶えた。
そして目の前に、さっきまで並んでいた家の十軒分の長さはあろうかという壁が現れた。和風の石壁の奥には、木々が生い茂っている。ちょっとした林のようになっているようだ。
樫森が壁の前に立ち、顔を上げてこちらを向く。
「ここ」
長谷川は一瞬彼女が発した言葉の意味を理解できなかった。
そして、少しの思考時間の後に、ようやくそれらしきものを覚った長谷川は、目を門の横へと向ける。巨大な敷地を定めている長く張り巡らされた門。その表札に刻まれていた文字は、確かに「樫森」となっていた。