3 夕麗 Lost In Logic (7)
ジッ……。
長谷川は机の上に置いてある「それ」を睨みつける。
「それ」は睨みを跳ね返すかのように、黒の数字の羅列を送りつける。
長谷川は目をしぱしぱとモールス信号のように何度も瞬きを繰り返して、視線を投げつける。
――どう見ても黒である。
確かにその事実を確認した長谷川は溜息をつく。そしてこう思う。
光陰矢のごとし、とわかったように人は言うがそうではない、と。
矢のごとく流れるのは、休みの時間だけであり、寝ている時間だけなのであり、それ以外の概ねどうでもいい時間――例えば一週間前にあった、鳥居を監視しているような下らない時間は、のっそりのっそりとナメクジの歩むがごとく、これまた退屈に進んで行くのである。
――ふと、ナメクジの移動は「歩く」と言って良いものかどうか気になったが、それは本質的な議論ではない。
問題はナメクジである。
長谷川が過去に仕入れた知識によると、ナメクジは日本では六月に活動を活発化させるのだそうだ。
この六月と言うのは非常に残念な月で、雨の降る日がまことに多い。
そして、それに対応するように、平日と名のつく日もまことに多いのである。
何を意味するかというと、それはこの長谷川の目の前にあるカレンダーのように、ほとんどのカラーを失った黒字の数字が大量に発生すると言うことである。
それこそが今、長谷川を悩ませている現象であり、頭を抱えさせている元凶なのである。そしてそれに、つい昨日まで続いていた赤い数字の金色の日々の思い出がのしかかる。
――ああ、と思わず嘆いたところで、急に人の気配を感じて振り向く。
「なにが――ああ、だよ」
顔を見るまでもなく亮月である。
「中間テスト? じゃないな。あれって今月末だしな。来月ってと――」
下手に詮索されるのもイヤなので、長谷川は正直に経緯を話す。すると亮月は
「六月は休みがない? ばっかだな、あるじゃん」
と言いながら、六月の頭の数字を指し示す。
「六月二日は横浜市の開港記念日でお休みです」
あまりに自信満々にいうので、長谷川は首を横に振るのが申し訳なくなる。
「休みじゃないよ」
「なんで? 中学のころ休みだったし」
「あれ、横浜市の休みだから。うち市立じゃないし」
――え? と亮月は目を丸くする。そうして一人で、そうなんだ、とつぶやく。
そして、「ま、休みじゃなくてもいいじゃん」と、どうでも良さそうな調子で言う。そのどうでも良いことに、長谷川はここ三十分をまるまる費やしていたのだが。
彼女は長谷川の醸し出す哀愁などには目もくれず、部室の奥に歩みゆく。そして隅っこに寝かせてある何か薄い板のようなものを取り出した。
「これやろうぜ」
――木の板?
「囲碁セット」
「どっから持ってきたの」
「囲碁ったら、囲碁部に決まってるじゃん。この前、廃部になったんだってさ」
――それでも普通は持ってこないだろそんなの、と長谷川は心の中でつぶやく。
亮月はその声のない声には耳を傾けず、ジャラジャラと石を持ってくる。いつもながら、彼女の持ってくるモノは怪しい。碁石だって、どう贔屓目に見ても碁笥には見えない容器に入れられている。――なぜ一瞬でそれが碁石だとわかったかというと、その容器と言うのが透明のビニール袋だったからである。
「これしかなくってさ」
と亮月はあっけらかんと言う。囲碁部の頃からこの容器だったのかもしれないし、亮月が何かやらかした結果こうなったのかもしれないが、彼女の言葉からは詳細は窺えない。
ふと、辺りを見回すと、つい一週間前まで何もなかった部室に、何やら色々な物が置き始められたのに気づく。亮月が持ってきた囲碁盤もそうだし、窓から離れたところに積まれている本もそうだ。孫子、呉子、李衛公問対、六韜三略、司馬法、論語、詩経、春秋左氏傳などなど、まあ有坂の私物だろう。床に直に置いてあったら本が傷むんじゃないかと思ったが、見たところ全て一般の書店でも買えるような本のようなので、それほど気にしていないのかもしれない。
これまで空っぽだった室内に混沌が徐々に広がっていく。よくわからないが、これが部室――というものなのかもしれないと、長谷川は思った。
目を机の上に戻すと、これまで全く気にしていなかったものが目にとまった。
――このカレンダーって前からあったっけ?
「それ、有坂さんが持ってた」
「有坂さんが?」
「うん、上着のポケットの中から出してさ。ビックリした」
――なんでポケットの中にカレンダーが有るんだ。
長谷川は怪訝に思う。怪訝に思わない方がおかしい。
「あの人のポケット可笑しいんだよ。なんかすげえ色々入ってんの。変なローソクとか、スタンプとか」
「ローソクにスタンプ?」
「なんかね、シーリングスタンプって言うんだって。ローソク溶かしてその上からスタンプを押すんだってさ。手紙の封とかに使うらしいぜ」
――封蝋というやつだろうか。いまどき、何に使うのだろう。
そうこうしているうちに、すっかりセットを終えた――といっても碁石と碁盤を机の上に置いただけだが――亮月は、いつものように明るい笑顔で言う。
「準備できたぜ。――ってもさ、囲碁わかんないんだよね、私。だから五目並べな」
よく考えたら、長谷川は参加の是も非も表明していないが、すでにここまで準備が整ってしまったらどうしようもない。
「どっちがいい? 黒? 黒でいいか?」
カレンダーが脳裏に浮かぶ。
黒は――嫌だった。
「赤」
「ねえよ。――よし、黒な。私白のほうが良いし」
こうして、期せずして長谷川は、この大きなマス目を一個一個自らの手で黒色に塗りつぶすことになった。
この春空の下、憂鬱の中で。